お前は文章書くのは好きですか? と今でも昵懇にさせてもらっている高校の頃お世話になった国語の先生(既に定年退職されて、今は様々なことを研究していらっしゃるようです)がいつか私に問いかけてくださいましたが、あまりに毒があり、自分の世界に入り過ぎて読み手を意識する良心的なライターになりえないと思いますし、その気が全くないので文筆業は興味がありませんとあやふやに答えました……。
文字は何の為にあるのでしょうか。コミュケーションの1つとしての意味合いが強く今は認識されます。必ずしも考えや思想を披露する為のツールという認識は次の感じ、でしょうか。読み手があるから文字になって私のブログが存在します。半ば一方的で且つ、独善的なくだらないブログ(かつてションベンブログと)ですからコミュケーションが産まれる可能性は低いのは承知です。
そこで、芥川龍之介の晩年は何の為に作品を世に問うたのか、と今さら思う訳であります。難しい沈鬱が支配する中で誰が芥川龍之介を本気で迎合するのか、一方的過ぎはしないか、とさえ昭和2年に亡くなる前の芥川龍之介に想いを馳せてみました。
貴重な動く芥川龍之介の映像です。イケメンですね。少し病んでいる感じはします。芥川也寸志さんが映っていますか? 解りません。
文筆業はやはり読み手を意識して書くのは大前提ではないでしょうか。私なぞ、成れた話じゃござんせんぜ、と思います。生の対人で遠慮していますから、せめてブログくらいは思い切り(悪口は慎んでいますが)書かしておくんなはい、と。そこで、又、芥川龍之介にとって読み手はどのように捉えていたのでしょうか。
あまり意識していなかったか、全く自分とは違う世界に住む別の世界ー文字だけで唯一繋がっているかのようなー の生き物くらいの感覚だったのかもしれませんね。しかし、上の映像ではご子息を半ばはにかみながら愛でているかのような戯けた表情(サービスかしら? それとも文字の少ない世界に住む子だから?)を垣間見えて人間らしさを確認できて安心しますが、間もなく自ら……。
熱心な読み手ではないので、色々語れませんが知識をひけらかすようなところがあるような作品がない訳ではないです。上辺の小説の世界の文字による美意識を目指していた? それは太宰治や三島由紀夫が結実した仕事を遺したように感じますがしかし、彼らの精神的な不健康は文筆業として最後はそっぽ向かれるのがオチではありせんか。
私は彼らの雰囲気は好きですが、生涯の友、例えば李白や杜甫の詩の美しさ、夏目漱石の読みやすさ、親しみやすさ、宮沢賢治の素朴さ優しさ、井上靖の爽やかさなどからすれば、良い意味での常識に対する反骨精神が漂い暗鬱な世界に読み手を誘いますから生涯の友にはできません。しかし、猛烈なカリスマ性はあります‼︎ 彼らもその作品を創るなかで変な世界に入ってしまったのでしょうか、自ら命を絶ってしまう行為にまで発展してしまいました。
文字の世界にそこまで魔の力が潜んでいるのでしょうね。なぜ芥川龍之介は晩年、もっと自身とは裏腹に健康的な作品を書かなんだか、と。空元気でも構わないから明るさを文字に託さなかったのかと。文筆業だから良い面を善良で健康を販売しなかったのかしら、と。
私のブログは全く高尚なものではありませんから、ブログの先に有る、文筆業など到底できる能わずです。読んでくださる方があってのブログであることは承知しています。しかし、健康的なブログは山ほどありますから、私は同列する意義は感じません。むしろ読ませてもらう意義は大いに感じます。拙ブログはあくまでも脳内整理のそれですから汚いことも書きます。
嗚呼、コミュケーションがこれでは成立しません。申し訳ございません。