大人になると、なぜ想像することを忘れてしまうのだろう

子どもの頃は、
もっと自由に想像していたような気がします。

雲を見て、

「あれは犬みたい」
「あっちは大きな船みたい」

そんなことを、何のためらいもなく話していました。

ところが大人になると、いつの間にか、

「正しいか、間違っているか」
「役に立つか、立たないか」

そんなことを先に考えるようになります。

ネパールへ行く準備から始まったこと

9月にネパールへ行き、
親のいない子どもたちの施設を訪ねる準備をしています。

文房具などを届けるだけではなく、
子どもたちと一緒に何か楽しい時間を過ごせないだろうか。

そう考えていて、思いついたのが「想像する遊び」でした。

たとえば、刷毛を一本持って、

「これは魔法の刷毛です。
今日の空を好きな色に変えられるとしたら、何色にする?」

と聞いてみる。

あるいは、

「雨と一緒に宝物が降ってきました。
何が降ってきたらうれしい?」

「花が咲きました。
そのとき、どんな音がした?」

そんな問いかけです。

答えはありません。

空がピンクでも、金色でもいい。

雨と一緒にお菓子が降ってきてもいいし、
花が「ポワン」と音を立ててもいい。

考えているうちに、私自身がどんどん楽しくなってきました。

そして、ふと思ったのです。

これは、子どもだけに必要なものなのだろうか。

大人は「正解」を探すことに慣れすぎている

大人になると、

ちゃんとしなければ。
失敗してはいけない。
人から変だと思われたくない。

そんな気持ちが少しずつ増えていきます。

すると、

「こんなことを言ったらおかしいかな」

と、自分の中から浮かんできたものを、自分で消してしまいます。

でも、想像する力そのものがなくなったわけではないのだと思います。

ただ、使う機会が少なくなっただけ。

そして、その力を少し使ってみると、
忘れていた自分の一部分が、ひょっこり顔を出すことがあります。

想像するためには「余白」がいる

私は最近、「余白」ということをよく考えています。

予定でいっぱいの毎日。

スマートフォンを開けば、次々と入ってくる情報。

何かをしていないと、時間を無駄にしているような気持ちになる。

そんな毎日の中では、
想像するための場所がなくなってしまいます。

何の役にも立たなくていい。

答えが出なくてもいい。

ただ、

「もしも……」

と考えてみる。

その小さな余白から、
今まで思いつかなかったものが生まれるのかもしれません。

大人にも、もう一度「もしも?」を

ネパールの子どもたちのために考え始めたことでしたが、
そこから今、大人がもう一度想像することを楽しめるような、
小さな絵本づくりも考え始めています。

自分で物語を考えて、
AIの力も借りながら、一冊の絵本にしてみる。

上手な文章を書くことが目的ではありません。

眠っていた想像力を、もう一度使ってみる。

そんな時間があってもいいのではないでしょうか。

何かを始めると、
最初に考えていた場所とは違うところへ、
道が続いていくことがあります。

今回のネパールへの旅も、
私にとってそんな道の一つになりそうです。

さて。

もし今日の空を、好きな色に塗れるとしたら、
あなたは何色にしますか?

少しだけ、正解のないことを考えてみませんか。