岡山県の西部にあった備中国〈きびのみちのなかつくに〉は吉備の中央に位置し、弥生時代には吉備の王墓とされる楯築〈たてつき〉遺跡(墳長約80m)、古墳時代には大王陵に匹敵する規模の造山〈つくりやま〉古墳(墳長350m)が築かれています。この備中国の国府(国司が政務をとる国庁が置かれた場所)があったとされる賀陽〈かや〉郡は、現在の総社平野から高松平野にかけての一帯に比定されています。このうち総社平野東部の金井戸地区には「北国府」、「南国府」、「御所」といった地名が残り、備中国府跡の有力な候補地と考えられてきました。
この備中国府跡の所在を確かめるため、昭和61年(1986)から3か年にわたって発掘調査が行なわれました。東西2.5㎞、南北1.5㎞の範囲に195か所もの試掘坑を設定して掘り下げたのですが、国府にかかわるような遺構はまったく見つからなかったのです。その後も、さまざまな開発事業が計画されるたびに発掘調査が行なわれましたが、いまだに国府関連の遺構は確認されていません。こうしたことから私は、これまで調査の手が及んでいない総社市街地の下に埋もれているのではないかと考えるようになりました。特に注意されるは総社宮の周辺です。総社とは、平安時代に国内に鎮座する神社の祭神を集めて祀ったもので、国司の参拝に便利なように国府の一角に建てられました。実際、美作国(岡山県北部)や伯耆国(鳥取県中・西部)では、総社の近く国庁があったことが発掘調査によって確認されています。それに何より、総社宮の北東に立つ総社小学校の一角では、古代に遡る鍵形の溝が見つかっているのです。残念ながら限られた範囲の調査であったため、どのような施設が存在するのか分かっていませんが、遠からずその全貌が明らかになるものと秘かに期待しています。
総社平野の旧河道(太線)と推定国府域(四角)
総社平野に残る地名(総社宮は左下隅)
総社市金井戸に立つ「備中国府遺址之碑」(大正15年)
「伝備中国府跡」の解説板
総社市総社に鎮座する総社宮





