問答法論史
月刊誌「妙鏡」では先日まで法難史を掲載しておりました日蓮宗系との問答・法論が法難に発展しるケースが多々見られましたではどのような法論が行われてきたか近年の歴史をたどってみたいと思います昭和30年 「小樽問答」創価学会vs日蓮宗身延派学会が身延派を破折昭和4年日蓮正宗・神戸独一本門講・増田耕一氏vs日本山妙法寺僧侶・藤井行勝増田耕一氏が論破昭和3年日蓮正宗・神戸独一本門講増田耕一氏vs日蓮宗身延系日蓮主義宣伝会増田耕一氏が論破昭和元年「札幌法論」日蓮正宗・北海道深川宝竜寺渋田慈旭師vs本門法華宗渋田慈旭師が本門法華宗を破折大正6年2月日応上人、品川大崎館にて演説会を開き立正大学・田辺善知の高等批判日蓮正宗教義一班を論破する(56世日応上人)同年3月大阪蓮華寺信徒・荒木清勇氏同じく品川大崎館にて立正大学・田辺善知を破す明治34年1月17日日蓮正宗(当時は富士派)vs顕本法華宗顕本法華宗が問答破棄同年3月1日日正上人vs顕本法華宗・本多日生(57世日正上人)東京江東井生村楼にて公開問答日正上人が本多日生を論破*この時代は日応上人を先頭に日正上人、日柱上人、富士元智堺(妙光寺初代)有元広賀師など歴戦の勇士が沢山いました(58世日柱上人)(妙光寺初代・富士元智堺師)(妙光寺二代・有元広賀師)明治23年11月20日日盛上人vs 清水梁山(身延系学者)横須賀にて問答同年11月25日日蓮正宗(当時は興門派)加藤日普師公場対決を宮内庁に上申明治18年4月12日大阪蓮華寺信徒・荒木清勇氏vs日蓮宗一致派信徒・畠山弥兵衛大阪にて法論同年4月18・19日日応上人vsヤソ教徒小田原にて公開討論(ヤソ教・・・キリスト教のこと)明治16年6月〜8月大阪蓮華寺信徒・荒木清勇氏vs日蓮宗八品派荒木清勇氏が破折明治15年9月「横浜問答」大石寺本門講vs国柱会(ただしこれは筆戦)明治12年1月「霑志問答」日霑上人vs 北山・玉野日志(これも筆戦)明治8年10月大阪蓮華寺講頭・森村平治vs要法寺末天満蓮興寺・堺住本寺問答起こる同年12月16日日蓮正宗堺本伝寺本立講vs日蓮宗一致派妙見朋友講本伝寺本立講が論破この頃の大阪方面の信者さんたちの勢いは凄いですねおよそ明治〜昭和期の問答・法論の歴史を列記しましたその少し前の幕末期には以前このブログで紹介した「砂村問答」が行われています江戸幕府は他宗を過激に批判攻撃するような問答、法論を禁止しておりました(自讃毀他の禁止)また寺請制度(人別の統制・現在の戸籍制度)もあり容易に折伏・改宗きる時代ではありませんでした過激な布教は「御禁制の宗教」とレッテルを貼られ隠れキリシタン同様に扱われ重罪とされましたそんな時代でも砂村、尾張、金沢、猫沢、蛇窪とよく教宣を拡大していったと思いますこれは問答法論ではありませんが文久元年2月1日日霑上人は水道橋において寺社奉行の青山大膳に申し状をもって直訴しました(52世日霑上人)これにより奉行所に留め置かれますが(宿預け)その後の調べのなかでこの申し状の主旨を訴えますそれを聞いた青山氏は大変感銘を受けたそうです結果は「事無し」ということになり無事帰山されましたまた56世日応上人は「東京布教」が悲願でした東京深川の東元町(現在の江東区森下)の長屋に住み自らの足で折伏に歩きます休日晴天時には上野・浅草などの繁華街にて街頭演説をしましたその他時間がある時には戸山の陸軍病院に慰問を行うなど多種多様な活動をなされます(戸山の陸軍病院)上記のように法論、対論を得意とした上人は法道会(現在の法道院の前身)を旗揚げし東京布教を大いに成し遂げました日応上人の東京布教の延長線上、昭和5年に創価学会が誕生します簡単ではありますが明治〜昭和期の問答の歴史と信者、御法主上人の活躍をここに記しておきます内容を詳しくお知りになりたいかたは富士宗学要集6.7.8.9巻をお読みください【あとがき】街頭演説をされたり他宗と法論をされたり自らが折伏に歩かれたりとその行動かあまりにも俗人ぽいから止めいただきたい、と在京の信者から申し入れがありましたが上人はかまわず折伏に歩かれたそうです「深川や蛸一匹の浮きしずみ」その時の心情を吐露された一句です「団結行動の年」も三分の一が過ぎました昔の御信者さんたちに笑われることがないよう走りに走ってまいりましょう妙光寺 城内啓一郎