最蓮房は実在した僧侶か?(3)
「最蓮房が居ようと、居まいが対告衆として大聖人様が重要な法門の御書をお残しになっているのだから、それ以上のことはよいではないか」とのご意見を頂きました誠にごもっともなご意見で、ただ、このブログは法門のことを語っているのではなく、歴史的なことを書いておりますのでご了承くださいさてお住まいが一ノ沢に移られたあとも中興入道親子・国府入道夫妻など地元の名士達も続々と帰依しました土豪の一ノ沢入道は入信こそしませんが大聖人様を最大の外護の任にあたりますこのように守護代や土豪、名士が続々と帰依するのですから念仏者達もうかつに手が出せなかったことでしょう阿仏坊などは「元北面の武士」と名乗っていましたからなおさらですこのように信者数が増えれば自然とグループ(講)ができます後年、日興上人様が「佐渡国法華講衆」とお呼びになられておりますので、かなりの信者数だったのでしょう当然、その法華講衆の育成は日興上人様が担っていたと考えられます当時の佐渡では日興上人様を先頭に大聖人様に信伏随中した一大教団が出来上がったいたのです(残念ながら現在では富士の宗風は奮っておりません)また、大聖人様は国府入道夫妻に対し「自然と足がそちらに向いてしまう」と申されておりますので、かなり自由に出歩かれたと思われます当然その講の中には最蓮房さんもいたことでしょうそして発迹顕本された大聖人様は二大重書といわれる「開目抄」「観心本尊抄」や佐渡三部作といわれる「如説修行抄」「顕仏未来記」「当体義抄」など重要な御書を次々に著されました特に最蓮坊さんにはこの「当体義抄」の他、「生死一大事血脈抄」「草木成仏口決」「諸法実相抄」など重要な法門の御書を著しました約3年半のご流罪生活の後、大聖人様は御赦免になり鎌倉に戻られますここから最蓮坊さんの消息がパタッと消えます最蓮坊さんは佐渡に残られたのか?同じように赦免になり京都に帰られたのか?はたまた大聖人様の後を追い身延に入られたのか?ただ分かっていることはそれから6年後の弘安3年11月に大聖人様は最蓮坊さん宛に一通のお手紙を書かれていることです。このお手紙は「十八円満抄」と名付けられ、内容は天台の法門では成仏できず、法華経によって成仏できるのである、と大聖人様が重ねて御教示されています以前「止観勝法華」の考え方を破折され、重要な法門の御書をいただいたにもかかわらず最蓮房さんはいまだ天台ズリの考え方が捨てきれずにいたのでしょうか?このお手紙を最後に最蓮房さんは完全に表舞台から姿を消してしまいました私はこの「十八円満抄」は最蓮房さんではなく門下、特に五老僧たちに宛てた御書ではないか、と推測いたしますその理由は大聖人様滅後の五老僧達は判で押したらように「天台沙門」と名乗ります日興上人様ただお一人が「日蓮聖人の弟子日興」と名乗りました五老僧がそのような信仰姿勢になることはすでにこの時お見通しだったのですこの御書はその警鐘の意味で残されたのではないか、と考えておりますなので「十八円満抄」は総じていえば元天台僧の最蓮坊さんに別して言えば門下、特に五老僧に宛てたお手紙だったのではないか、と推測いたしますではなぜ今まで書いた重書は日興上人様宛ではなかったのか?という疑問が残ります二大重書も富木常忍さんや四条金吾さんです実は日興上人様に宛てたお手紙は「伯耆殿等御返事」しかありませんこれは熱原の法難の時に日興上人が陣頭指揮を取られ大聖人様の元を離れられていた時の御手紙です(同時期、類似の短いお手紙が2遍あります)大聖人様のおそばにおられないので初めてお手紙をおしたためになられましたそれまで常に大聖人様のおそばでお仕えしている日興上人様にわざわざお手紙を書く必要はないのです近年、日応上人は御相承について「金口嫡々相承」とお示しになられておりますから、日興上人様はその都度、口伝にて御相乗を受けていたのではないでしょうかそして日精上人が「別して之を論ずれば十二箇条の法門あり」(聖典P695)と仰せですこれは「金紙相承」のことになりますが、日顕上人は「この金紙相承については、御相承の内容になりますからこれ以上は申し上げられませんが、ある意味では‟紙背に徹する”ということを堀上人もおっしゃっておりますように、紙背に徹して御書を拝していくならばすべてが示されているともいえるのであります」(平成4年全国教師講習会の砌)と御教示ですつまり「金口相承」は大聖人様から直接お受けになられ「金紙相承」の意味も含めこのような重要な法門は別しては日興上人様宛てに書かれたのではないでしょうか弘長配流(伊豆流罪)の時も文永流罪(佐渡流罪)の時も、その他諸々の大難の時も、大聖人様の影に随うごとく常髄給仕されたのは日興上人様ただお一人です百六箇抄にいわく直授結要付属は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興をもって総管首となし、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付属せしめ畢んぬそれにしても佐渡ヶ島以来ぷっつりと姿を消したナゾの僧侶最蓮坊さんどこに行ってしまったのでしょうか?本当に存在していたのでしょうか?ちなみに最蓮房さんの「最」は辞書で引くと〖最〗 サイ・もっとも《名・造》他よりもすぐれている。こえるものがない。第一。いちばん。「最たるもの」まだまだ研究の余地がありそうです妙光寺支部・城内啓一郎 拝