火災・災害の歴史(前)
正応3年(1290年)大石寺が建立されましたそれより大東亜戦争に至るまで、富士門流の火災・災害の歴史を振り返ってみたいと思います建立から175年後、寛正6年(1465年)日有上人が客殿を建立しましたそれから57年後、大永2年(1522年)12世日鎮上人は御影堂、総門などを建立し大石寺の威容が整ってきますその頃、日蓮宗各派はこぞって京都布教に力を入れておりましたその中で天文5年2月,比叡山延暦寺西塔の華王房が法華門徒の松本久吉と法論して破れました(松本問答)それに怒った比叡山延暦寺は六角定頼の連合軍と手を組み京都の法華宗寺院を全て焼き払いました信徒たちは京都から追放されますこの時、上行院と住本寺が焼失しましたこれを法華天文(ほっけてんぶん)の乱といいます一説によると先の応仁の乱より京都の街はひどく焼き払われたといわれていますこの頃はすでに戦国時代に入っており一向一揆などと相まって政情不安定な時代です種子島に鉄砲が伝来したのもこの頃です戦国時代も佳境に入りいよいよ大石寺にも戦火が及びますその頃勢力を拡大してきた戦国大名に武田信玄がいます上杉謙信との川中島の戦いは教科書にも出てきますね13世日院上人の頃、永禄11年(1568年)信玄は駿府(静岡)に侵攻してきて駿府城を焼きます翌永禄12年武田軍は北上し岩本実相寺、重須(北山)本門寺、大石寺を焼き払います敵の城や砦を焼くなら分かりますがなぜ寺社仏閣まで焼き払うのでしょう?その頃の井出家文書(大石寺総代)に「つねづねきやくでんのうわぶきなされ候」とありますから客殿は茅葺きだったことが分かりますですが、茅葺き屋根に火を付ければどうなるか、想像してみてくださいあっと言う間に火の海です「諸堂」とありますから客殿だけではなく全て焼かれたのでしょう(天正年間の大石寺・塔中)その後仏罰を被った武田家は13年後の天正10年(1566年)織田・徳川連合軍に敗れ自領の天目山にて一族郎党滅びました慶長7年(1602年)妙蓮寺の山門焼失寛永8年(1631)大石寺諸堂焼失この年は大聖人様350遠忌が奉修された記念の年ですこの頃は戦国時代も終わり徳川の江戸時代に入っていますので戦火でないことは確かですなにか失火事件でもあったのでしょうか延宝3年(1675)重須(北山)本門寺書院より出火、山門、五ヶ坊焼失これは放火事件、犯人は学頭日然、本人はその後逃走(学頭ですから役僧でしょう、何か遺恨があったんでしょうか)宝永4年(1707)仙台・仏眼寺焼失焼失とありますから失火により焼けたのでしょうこの年は富士山が噴火し関東地方は大混乱に陥った年です宝永5年(1708)京都・要法寺類焼この年は京都三大大火の一つ「宝永の大火」により要法寺は焼け落ちてしまいました正徳2年(1712)江戸・妙縁寺類焼下町の新材木町から出火したした火災で50~60町が焼け、この後町火消結成のきっかけとなりましたこの5年後享保2年(1717)大石寺三門が建立享保11年(1726)大石寺・常唱堂建立三門建立によりかなり迫力がある伽藍となったことでしょう明和元年(1764)仙台・仏眼寺類焼北目町を中心に892戸が焼失する甚大な被害が出ましたこの火災は、宝永・明和期における仙台城下の代表的な大火の一つとして記録されています明和3年(1766)下谷・常在寺類焼現在の日本橋人形町付近にあった初代尾上菊五郎が副業で営んでいた油見世から出火しました強い風に煽られて燃え広がり、芝居町の中村座 と 市村座 を焼き尽くした後、北東方向の下谷・浅草方面へと延焼しましたその後菊五郎は江戸にいずらくなり上方に逃げてしまいました初代尾上菊五郎は『仮名手本忠臣蔵』の大星由良助が当たり役で有名ですなのでこの火事は「菊五郎油見世火事」といわれています歌舞伎役者が副業などに精を出した結果、とんでもないことになってしまいました明和8年、火災から5年後常在寺は再建されましたが翌年再度類焼しますこれは江戸三大大火のひとつ「明和の大火」です目黒行人坂の大円寺に盗みに入った武州無宿の熊五郎という賊による放火が原因です別名「目黒行人坂の大火」とも呼ばれています強い西南の風に煽られた猛火は、麻布、日本橋、神田、本郷をまたいで下谷・浅草方面へと北東にまっすぐ延焼し、最終的に千住まで達しましたこの大火は江戸城の櫓までをも焼失させたため、火附盗賊改の長谷川平蔵が捜査にあたり、放火犯を捕らえて鈴ヶ森刑場で火刑に処しましたまた、この年は「明和9年(めいわ=迷惑)」に通じることから、縁起を担いで同年11月に「安永」へと改元されました今と違い警察組織も脆弱で防犯カメラなど無い時代、人口100万人の江戸八百八町から犯人を捕まえるのですから恐るべし鬼平~~!!w余談ですが歌舞伎役者初代中村仲蔵はこの常在寺に葬られました寛政8年(1796)千葉・細草檀林焼失文化7年(1810)江戸・妙縁寺類焼本所中ノ郷(現在の東京都墨田区の一部)から出火した「中ノ郷大火」により焼け落ちました本所や深川の下町は木造住宅の過密地帯で非常に火災に弱い構造でした。この文化年間は「丙寅の大火(文化の大火)」をはじめとして非常に火災が多い時期でしたこの中ノ郷の火災も、年末の乾燥と強風が重なったことで被害が拡大した典型的な江戸の火事の一つです文政5(1822)仙台・仏眼寺類焼別名「荒町大火(あらまちたいか)」と呼ばれ、城下の荒町にあった木村源治という侍屋敷から出火しました。折からの風に煽られ、火は猛烈に延焼しました荒町の町並みを焼き尽くしながら進み、若林城(伊達政宗の隠居城跡)の蔵にまで燃え広がりましたこの大火の翌年から伊達藩は「定火鐘」を設置し通報体制を整えたといわれております弘化4年(1847)仙台・仏眼寺再度焼失この年仙台では大きな火事はありませんでした焼失とありますから失火によるか焼失だったのでしょう~~~以下、次号に続く~~~【あとがき】仙台仏眼寺「飛び曼陀羅」のこと伊達藩(仙台)は東北の大藩(大都市)のためしばしば大火災が発生しておりますある時、城下は火災にみまわれました翌朝、城主が青葉城の松の木に一幅の曼陀羅が掛かっているのを発見します調べさせると仏眼寺の曼陀羅というそれ以来伊達家の庇護をうけ毎年の御会式の時はこの曼陀羅を御駕籠にのせて青葉城に登城させ『仏眼寺の飛び曼陀羅』と称され親しく信仰されるようになりましたこの御駕籠は現在も仏眼寺本堂脇に保管されています35年前、仏眼寺の御虫払いに参詣させていただき、この飛び曼陀羅を参拝させていただいたことを昨日のように思い出します妙光寺支部・城内啓一郎