シナリオのない物語

はしがき

 私は、特に大学への進学を懇願していた訳ではありませんでした。但し、東京に住めて、大好きな絵や音楽が思う存分できると言う、たった三つの魅力に負けてしまい、これっぽっちも行きたくのない学校(しかも四年間)に行くことになったのです。私の眼前に繰り広げられた、リアルで緊張感のある地獄絵図を克明に書き写された体験談です。

 ギターの腕前については高校時代に身に付けたテクニックを存分に披露しましたが、高校時代の様に一日、五〜六時間も、練習をする事が物理的に無理でした。しかし私のギターテクニックは東京でも充分に通用する様子でした。

 では前置きはこの辺にして早速本編をお楽しみください。

   私の大学時代について記述してみたいと思います。
 私は無試験で大学に入学しました。(いわゆる推薦入学と言う奴です。)私の通っていた大学は、東京にある武蔵野美術大学と言う国立の大学です。   
 1962年に国営化となり。同年にはビートルズがデビューし、何よりも私が生まれたのも1962年でした。

 私の大学時代は(東京)生活はかなり荒んだ毎日の連続でした。しかし私は、昔からの憧れていた花の都に住めると言うことだけで一喜一憂していました。しかしながらそのような気持ちも、一カ月も経過しない内に意気銷沈していきました。

 家賃の四万七千円だけが親からの仕送りで、「その他生活費や学費を始めとするお金は、すべては自分の手で稼ぎなさい。」という具合です。家具らしき物も何もない閑散とした部屋の中央には特に大きな、イギリス製のマーシャル(JCM600)というギターアンプがありました。アンプの横にはアメリカ製のフェンダー社のギター、ストラトキャスター71年製)がアンプに寄りかかるように、突っ立っていました。これらの楽器は、私の唯一の宝物であり唯一の親友でした。
 部屋のダンボール箱の荷解きも、ままならない内に一週間という時が過ぎ去って行きました。
   私は気を紛らわす為に、自分の部屋に一人でいる時には、部屋の照明を落としてギターを大音量で弾いて居ました。勿論の事、御近所からイヤと言う程、苦情があったのは言うまでもありません。

   一方、学校では明けても暮れてもデッサンの繰り返しでした。

   バイトの方も随分と慣れてきて、漸く最低限ながらも人間らしい生活を送るようになるには、約半年間と言う月日を要しました。

 或る日、一本の電話がかかってきました。やや上から目線で…
「俺達のバンドでギターを弾かないか?」
と言うことで、どうやら私が楽器屋に、メンバー募集の貼り紙を見た様子でした。(実は私は、別にもう一つのバンドでギタリストをしていました。)
私は、
「オリジナルの曲しか弾きませんよ」
と言うと。
「構わないぜ!」
と電話で承諾されました。
私は
「デモテープを渡すから、池袋の、東口のマックで」と、待合せをして、電話を切りました。時間通りにハンバーガーを食べていると、向こうの方から、如何にもパンク風の出で立ちで、ピンクと金髪で、ジェルでツンツンに固めた髪型だったので、この二人を見た時に、私はこの話しは無かったことにしようと真剣に脳裏を掠めましたが、折角なので渋々デモテープを渡しました。
「俺達はルックスも最高だし、テクニックも一流だぜ!お前みたいなチビじゃ無いしな」
と言うので私は、
「では一週間後にスタジオに入りましょう」
と言ったのが大間違いでした。一週間が過ぎて、パンク野郎共は、デモテープを渡したにも関わらず私の楽曲を全く演奏出来ないのです。おまけに「ヘッドバンキングをして頭がおかしいのでは無いのか?」と私は思いました。
「君達とはバンドは元より、近づきたくも無い!」
と言い残して、スタジオを出ました。外は木枯らしが舞っていました。ギターのハードケースを椅子代わりにして、ジャケットの襟を立てて、タバコに火を灯しました。

   私はもう一つのバンドで行こうと、決意しました。案の定私のジャッジは大盛況を授かりました。ライブハウスや他校の文化祭に呼ばれて、各地を回るようになっていたのです。

   大学二年の時、田舎から嫌な知らせがありました。当時の私はバンド活動に集中していましたので、学校の授業やバイトは疎かになっていた時期で、非常に多忙を極めていたので、当惑してしまいましたが、一本の電話が私の人生を方向転換させられることになるとは、思いもよりませんでした。

   問題の電話というのは、父の急死(心筋梗塞)それと母の肺癌で余命幾許も無いとのことでした。 
私は、この知らせを聞いて、絶望と言う苦渋を味わいました。私は電話を切ると、即刻身の回りの荷物をまとめて、ギターをハードケースに入れると、新幹線で帰路に着きました。

   まず父親の葬儀の喪主を務めなくてはいけませんでした 。葬儀屋のおかげで滞り無く、何の問題も無く葬儀は終わりました。と言いたいところですが、世の中そんなに甘くはありません。
葬儀代というものが眼前に立ちはだかりましだ。「十五万円」

 母に頼るわけにもいかない私は命の次に大切な、ストラトキャスター(ギター)を手放すことに決めました。質屋に持ち込むと「十五万円」で預けました。何とか葬儀代を完済出来ました。幸いにも父親は生命保険に入っていたので死亡診断書を保険屋に提出すると、「八百万円」のお金が入ってきましたので、早速ギターを質屋から受け取りに行きました。

   母の入院先の市民病院へ行きました。身体中をチューブに繋がれて、見るも無残な姿になっていました。鼻をつく異臭が個室の病室全体に広がっていました。
 父の後を追うように、まも無く母も他界してしまいました。ちなみに母の生命保険は一千二百万円でした。当然、受取人は私でした。

 お金の事はどうでもよくて、絶望と言う崖っ淵に立たされたような危機に襲われました。私の母は、せっせと働くサラリーウーマンだったので、社葬と言うことで私への負担はゼロでした。

 両親が時同じくして死亡して、途方にくれました。烈火に燃え盛る火の海に投げ込まれたかのように、この如何にも地獄的な境遇に…。
「天は我を見放したのか‼︎」
と神をも心の中で憎みました。

 丁度その頃、私は大学二年を留年しようと思っていました。心の傷の修復と故郷で最後のステージを思い出としてプレイしておきたかったからです。メンバーは、全員他のバンドから引き抜く手段を講じました。約半年の田舎での滞在期間で何とかステージに上がる事の出来るクオリティまで仕上げました。ステージではディープパープルのカヴァーを六曲と、このステージのみに限って私が書いた楽曲を一曲でした。  

 このライブで使用している私のハンドメイドで、全ての工程を私一人で製作しました。このギターは、どの海外のブランドギターよりも遥かに優秀でした。独特な工夫を凝らしてあって、そのポテンシャルは計り知れないギターでした。今となっては手遅れですが、特許を申請しておけば良かったと思い出と一緒に脳裏に焼きついています。
たった二回のステージでしたが、観客の反応は至って普通で、余り手応えが、良かったと言えないステージでした。

 経済的 精神的 苦悩や遣り場の無い寂しさに打ちのめされていた私の気持ちが観客の人に伝わったのかも知れません。

   このライヴをきっかけに私は、東京へ戻って行きました。家賃や光熱費  学費 その他色々な請求書が玄関のドアに捩込むように突き刺さって居ました。
大学二年生を丸々棒に振った私は東京で、せっせとバイトを始めました。
バイト先を数十件渡り歩きましたが、私の髪型が長髪だったので、大抵は肉体労働でした。毎日が自分との戦いで、仕事帰りはボロの雑巾のようになって帰宅しました。
 それに加えて、私の部屋には風呂と言うものが無かったので、疲れを癒すには銭湯にいくしか術はありませんでした。

   メインの仕事は、日雇いの派遣会社で、朝の八時に会社の 前にある広場に集まって(三十〜四十人)当日の仕事の行き先を、メモした紙を渡されて八千円〜一万円を支給され、二人一組のチームをランダムに決められるのです。社会的に信用のない、明らかに誰が見てもホームレスの人が大半をしめていました。受け取る日払いの額には、交通費も含まれていますので、現場が遠方になればなる程、手取りが少なくなって、私が経験した限りでは一日、三千五百円しか手元に残らないと言う日もありました。
 苦あれば楽あり。と言うように、辛いことばかりではありませんでした。

   私が二十歳(大学二年生)の学園祭の時、K.Kさん(十八歳)がスペシャルゲストとして来校しました。ショートライヴを行うとの情報を入手して、私はバックバンドのリーダーを説得して、私がリードギターとしてステージに立ちました。私は溢れんばかりの情熱を傾けて、派手で超絶技巧を駆使して演奏しました。これにはK.Kさんも流石に愕然として驚きを隠せ無い様子でした。
K.Kさんは、私のことが大変気になるようで、ステージから降りて、控え室で…
「あなたのようにギターが弾ける技術があるのならば、プロを目指したら?」
と言ってくれたにも関わらず、聴こえ無いふりをして、私はK.Kさんをデートに誘いました。
「良いわよ」
と、二つ返事で承諾してくれたのはよいのですが、何せ貧乏学生なので…
「お金は持っていませんよ」
と、正直に言うと。
「大丈夫。私に任せて‼︎」
と言うので私は
「しめた!」
と思って、デートらしき事をして、アルコールが回ってきた頃には今日子さんは私の肩にベッタリと、寄り添って来ました。私は内心
「これはイケる」
と思って、タクシーを呼んで近所のラブホに行きました。K.Kさんは酩酊していたにも関わらず、あっけなく二人は一つになりました。K.Kさんは身体も小さいし、のみならず極端に顔が小さいので、まるでフランス人形のようでした。一〜二時間立ったのでしょうか、二人はエクスタシーを向かえました。唯一、今K.Kさんは、男慣れしている感じがしました。
私は、暖かいおしぼりで、K.Kさんの身体を拭いてあげると、
「優しいのね」
と、K.Kさんは小声で言いました。セックスが終わってから、二人は全裸のままベットに横たわって、色々と話しをしました。
K.Kさんの裸体はバストは小振りですが、抜群のプロポーションで、クールでサバサバした性格なので私にしてみれば好都合でした。
ホテルを出た私達は
「じゃあまたね」
とK.Kさんが言って別かれました。K.Kさんの後ろ姿が闇の中に消えて行くまで、見送りました。そして私はトボトボと、背中を丸めて、地下鉄とバスを乗り継いで、家路を辿りました。
自分の部屋に漸く到着すると、濁った空気が身にまとわりついてきました。

   K.Kさんのライブて、使用したアンプが、業者の手で学園祭のステージから私の自宅まで運ばれてきました。
   私は早速シールドを繋ぐと妖艶な音が部屋中の空気をくすぐるように振動しました。早いフレーズを奏でると、粒の揃ったクリアな音色で、低音域のリフを弾くと、地鳴りの様なサウンドが得られました。特に、フェンダーのストラトでは得られない粘りのある中音域を私のハンドメイドのギターは見事に具現化しました。
ちなみに、このギターは、ストラト65%レスポール10%アイバニーズ25%といった比率のサウンドと言えば、理解して頂けるでしょうか?

   私はこのギターにインスパイヤー(本能・直感)を、誘発されて数曲の曲を書き上げました。シンセサイザーのシーケンサーに、ドラムのパート キーボードのパート ベースのパートを打ち込んで、最後にエレキギター乗せて、デモテープを作って、全国のライハウスに送付しました。するとしばらくタイムロスがありましたが各地のライブハウスから出演依頼のオファーが舞い込んで来ました。物理的に出演不可能な一部の地域は省かせて頂いて.、メンバーのワンボックスカー二台で、できる限り遠方まで出掛けました。大阪は、個人的に嫌いだったので、行きませんでした。各地で、私のボーカル抜きのインストバンドは、意外にも高く評価されて、雀の涙ほどのギャラを頂きましたが、その全ては、高速代と、ガソリン代に消えてしまいました。

   学校やバイトが、このバンド活動を大きく影響されて、これら三つのバランスを保つことが、私の前に大きな壁となって立ちはだかりました。
 バイトに行かないと食っていけない。学校に行かないと、卒業できない。バンドをやめれば夢が無くなる…。と、頭の中で万華鏡のように、ぐるぐると回りました。
 どれ程考えても、どうどう巡りです。全てを無難にこなすことは無理であることは、充分わかって居ました。
しかし暫時考査した結果、やはり何処まで行っても私は学生であることには間違い無いのです。今後、将来のことを考えて見ると、例え留年しようとも勤勉に学業に専念して、無事卒業することが、社会的責任を果たすことだと自覚したのです。
 其れからというもの、私の生活が一転しました。昼間はしっかり学校に通って、夕方から深夜にスカイラークで食器洗いのバイトをはじめ、のみならず深夜に倉庫の警備をしていました。おかげで、睡眠時間は、一日に二時間〜三時間が当たり前になってきました。
 当然のように学校に行っても、授業どころの騒ぎではなくて、教授に、
「立体感が無く、パーススペクテイブ(遠近画法)が出来てない‼︎
」と指摘されて、意気消沈しました。しかし私は夜のバイトをやめませんでした。

   薬局に行ってモカソフトというカフェインの固まりの藥を買って、眠りのコントロールをして、学校の授業にも集中出来たおかげで、二年生の単位も、そつなくパスして、三年生に進級できました。

   どれ程貧乏であっても、私は一途の希望が存在する限り、(たとえ不可能な目的であったとしても)決して絶望しないし挫折などはしません。
 かと言って、所謂負けず嫌いなわけではありません。例えば、行列に割り込んで来られても、何も言えない自分も同居しているのです。

 とにかく、生き延びる為には仕事が重要だったので、私は許す限り(長髪可)の仕事を片っ端から転々と渡り歩きました。殆どが肉体労働です。ちょうどバブルがはじまった頃でしたので、それ相当の見返りがありましたから、生活にも潤いが出て来ました。お金の為なら、どんなに辛い仕事や、冷たい人にも、笑顔を絶やさないで、せっせと働きました。体中が筋肉痛で朝ベットから起き上がることが出来ない事も経験してきました。

   私はK.Kさんに電話してデートを申し込みました。
「あら正通君⁈元気してる?」
と言って私の事を覚えていてくれた様子でした。
「バンドのほうは順調みたいだね。」
「え?何で知ってるの?」
と聞くと、
「二〜三回ライヴハウスへこっそりと観に行ってたの」
「もし、そうなら楽屋に来てくれれば良かったのに」
「そうね、其れも考えたけれど、迷惑になるかと思ってやめたの」
私はK.Kさんの気配りに、感銘を受けた。
私は、素直に、
「デートしたいけれど、スケジュールは?」
と言うと
「ちょっとマネージャーに聞いてみるから、このまま待っていて。」
と言うと受話器をおく「ゴトン」と言う音がして、三分ほど待たされた。
「ごめんなさい!お待たせして、」
「構わないよ」二〜三十分でよければ、空いてるけどね…もっと時間が欲しいんてしょ?H君!」
と言うので
「H君は勘弁してくれる⁈」
と言いました。K.Kさんは、
「分かったわよ、じゃあ今まで通り正通君で良い?」
「ありがとう!!︎スケジュールは一月一七日で大丈夫?」
と聞くと
「勿論だわ」
との返事だったので
「時間は?」
と聞くと、
「朝の九時〜二十四時間OKよ」
と言った。
「場所は?」
と言うと、K.Kさんは
「どこでもいいわ」
というので
「じゃあK.Kさんの部屋って言うのは、どおかな?」
と言うと。
「良いわよ」
答えた。
私は、約束に向けて仕事の予定を変更したり、学校を休んでも差し支えないように段取りをしました。

   いよいよ当日がやってキました。私はタクシーでK.Kさんの部屋まで向かいました。運賃は三千五百円でした。玄関の呼びだすベルを鳴らすと、「はーい!」と言ってK.Kさんが現れました。私は
「久しぶりだね。いつ見ても可愛いネ」
と言うと
「ありがとう」
と、言われ慣れている様子で、照れもせずに、受け答えしました。K.Kさんは背も低い上顔も小さいので、一般人とは一線を期す魅力がありました。玄関に入ると私は、いきなりK.Kさんの背後から抱き締めて、首筋にキスをしました。K.Kさんは突然の私の行動に驚きながらも欲情した様子で、私をベットルームまでエスコートしました。唇と唇をつないだままになって、ベットに倒れ込むと、お互いの服を脱がし合いました。
「こんなに早くすると後の楽しみが無くなるヨ。」
と言いつつもK.Kさんは自分の体を擦り付けきました…
 一通りの情事が終わるとベットから起き上がると二人はシャワーを浴びながら、K.Kさんは、小振りのバストにスレンダーな体が相まって、まるで妖精のようでした。私は
「これからも、ずっと一緒に居られると良いなぁ」
と言うと
K.Kさんは全てを知っているかのように
「正通君は選ばれし者何でしょ?だから、その任務を遂行しなきゃ!」
「選ばれし者?何?」
と言うと、K.Kさんは
「何でもない。」
と言いました。
ふっと時計に目を落とすと、3時でしたから私は、
「じゃー今日は帰るよ」
と言って地下鉄とバスを乗り継いで自分の部屋まで帰って行きました。

   部屋に戻った私は、全身からK.Kさんの残り香で、あふれ返っていたので、さっきの情事を思い出すと、猛烈に性欲が湧いて来たので、一人処理をしました。

   ある日、都内のライブハウスに出演していた時に、バックステージに、K.Kさん訪れて来てくれました。
「正通君。今日の演奏、素敵だったわ」
と言いながら、マスクとメガネを外した。その瞬間、驚いたのは他のメンバー達でした。
「おい田島!K.Kと知り合いか⁈」
と言うので、私は軽くあしらう様に、
「まあね」
と、言いました。K.Kさんは、
「今日はギターの音が伸び伸びとしていたわね」
「そうかな?何時もと変わらないけどね…」
と、答えると、
「私、飛び入りで歌おうかしら」
とK.Kさんが言い出した。
ちょうど「アンコール!!︎」 と言う、お客さんからの声と拍手が、楽屋まで聞こえて来たので、メンバー全員はそれぞれ準備をして、ステージへ駆け上りました。私はK.Kさんの額にキスすると、メンバーの待つステージに立つと、割れんばかりの拍手と声援で、迎えられました。
アンコールの二曲を演奏が終って楽屋に戻ると、K.Kさんが拍手で迎えてくれました。
「あんなに複雑な曲を皆んなノーミスで演奏できるわね〜」
と、K.Kさんが誰とも無くきいたので、ドラムのノブが
「練習時間が、他のバンドとは比較にならないからね〜、だろ?田島」と言いました。
K.Kさんが
「プロにはスカウトされないのかしら?」
と、K.Kさんの質問に、キーボードのタカが
「どんなに美味しいプロへの招待があつても、田島が蹴ってしまうんだぜ、ある意味クレイジーだ‼︎」
「正通君そうなの?」
「うん、プロは嫌だ。芸術的じゃあ無い」
「そっかあ正通君らしいね」
と、その時のこと。いきなりオーディエンスだった女性のファンの子達がバックステージに雪崩込んで来た。私はK.Kさんに、
「人混みに紛れて、逃げて!」
と言いました。K.Kさんは、其れに従ったのは言うまでもありませんでした。我々は、黄色い歓声に包まれて、写真を撮られたり、サインを懇願されたりで、大混乱になりました。かくいう私も、写真やサインは苦手なので、こっそりと楽屋からエスケープしました。

   其れよりも大変な事件が、起きたのです。ライブが終わって、メンバー全員が自宅にたどり着いた頃、悪夢の様な電話が、私の鞄持ちの木田から電話が入りました。
「田島さん!大変です!どうすれば…」
「木田落ち着け!何があった?」
と、私が言うと、
「田島さんのメインのギターが盗まられました!スミマセン私の責任です。」
私は
「何!?︎それは一大事じゃーないか!電話をしている暇があったら、大至急探してこい!」
私も冷静ではいられませんでした。探してこいとは言ったものの、どこをどう探せば良いと言うのか?自分でも無責任な言動だと思って猛省しました。

 私は再度、あのギターの制作に取り掛かりました。遍くギターは完成しました、指板をスキャロップ加工して、自分の手にフィットさせるのに、丸一ヶ月をようしました。完成祝いとしとして、ビールを、ギターのヘッド部分と乾杯して祝いました。

 いよいよバンド活動も本格化してきました。私はただひたすらに作曲に、明け暮れました。
私の書く楽曲は、難解で複雑化の一途を辿り、バンドで具現化することが不可能な曲を手掛けるようになって来ました。しかしながら、そんな難曲でもバンドのメンバーは、何とか演奏できるように全力を投じました。

    一方、学業の方も何の問題も無く進行して行きました。しかしながら、生活のリズムは相変わらずで、睡眠時間は二〜三時間で、授業中に居眠りすることが日課になつていました。ですから、テストの時は全てカンニングです。教師も、見て見ぬふりをして、半ば私のカンニングは、公認となっていました。実技だけはカンニング等不正は一切せずとも、奇跡的に単位株をゲットしました。そして命がらがらの思いで、四年生に進級出来たのです。

  バンドのメンバーは全員、社会人となって、学生は私だけになりました。私から見ると皆、頭髪も短くして、自分の社会人として自分の生活の安定を第一に考えている様子が伺えました。
スケジュールの都合により、ライブハウスのオファーも、御断りすることもポツポツとキャンセルするようになって来て、自然消滅の危惧を拭いさせられませんでした。

   私の作曲活動は、止まることを知らず、次々とアイデアが湧いてくるので、デモテープを作成して、メンバーに渡しても、スタジオで音合わせするすることはありませんでした。

   私の書く楽曲は変拍子、変調子は当たり前で、リズムもジャジーなものから、ツーバスを使ったハードロックなものまで多岐に渡っていました。楽器其々の技量が余りにも高過ぎるのでライブでの演奏は絶対無理だと思い、私はプロのミュージシャンを雇って、私の集大成とも言えるCDを自費で百枚リリースしました。ジャケットや、レーベルの全てのデザインは私がしましたので、その辺りのインチキデザイナーよりも高品質で格調高い作品となりました。
曲の良し悪しはともかく、好き嫌いが真っ二つに別れました。私その結果は、そんな世間の評価等、全く気にもしませんでした。
私はこのCD(アルバム)の発売を記念して大学生として最後のライブを行う為に、メンバー募集のオーデションを行いました。その結果、ドラム ベース キーボード共に、全員天才と呼べる、現役の芸大生に決定しました。二、三回スタジオに入って音合わせをしましたが、私は彼らのテクニックに酔いしれました。私の書いた楽曲を完璧に自分のものにしていました。其れに止まること無く、皆自分なりのアレンジを加えていました。
   練習の打ち上げには、決まって居酒屋へ行くのが、恒例の儀式なのですが、キーボードのナガが、何時ものように、ボケ役になって場を盛り上げてくれました。メンバー全員は上機嫌でバンドとしての結束力を高め、親睦を深めて行きました。

   勉学の方も四年生を迎え、卒論の準備をしないといけない雰囲気になって来ました。長いようで短い大学生活にもピリオドを打つことになって来ました。論文の目安はついているし、必要な文献も揃えてあります。論文のタイトルは「色温度に置ける人体へのイニシエーション」としました。内容は、ひたすら文献からの引用で、自分の意見や考えは、一切挿入していません。

   今の私は、ただ漠然とした不安に苛まられたまま時の過ぎるのに身を任せました。

   日比谷の野音で、東京での最後のライブを行いました。五百人に満たないオーディエンスでしたが、未だかつてない大音量で演奏をしました。卒業祝い、バンド活動完結、そしてさよなら東京…色々な意味を込めてのライブでした。メンバー全員が一丸となって自分の力を最大限に出し切りました。二時間半に及ぶ長丁場でした。最後の曲「NightMare」のイントロのアルペジオを弾くと、目頭が熱くなって来ました。キーボードのナガが客席の方を、あごを使って、私に知らせるので、その方向に視線をやると、K.Kさんの姿がありました。
 漆黒の空を見上げると、流れ星が一つ暗黒の闇を切り裂くように流れ落ちて行きました。

   私は、田舎に帰ってきました。と言っても両親は他界して居るので、私には帰る家はありません。私には兄弟が居ないので、天涯孤独です。
早速不動産屋を足が棒になるまで巡りました。丁度良い物件があつたのでさっさと、契約を結びました。
ただ、両親が残していった二千万円には何があろうとも一切手を付ける事をしなかったのが私の誇りです。

   誇りとは決して他から与えられるものではない。誇り高く生きて行くということは、自分のなかにある倫理に反せず生きていかという事である。

シナリオのない物語 完

あとがき
   私の人生の基礎である倫理や其れに附属した事柄は星の数ほどある。この著では学校や仕事そして音楽をメインとして記してきました。私は、これ以外にも画家、小説家という側面もあり、各分野でそれなりの評価を得る事ができました。時には、人間扱いされない時代もあったことも事実です。
 狂人、変人、奇人と呼ばれれば呼ばれるほど、私の創作意欲が沸くのです。何故だろう?真の本物とはそういうものだと思います。

 私と関係を持った人々を次々と振り回して迷惑を掛ける術を、自己防衛法の一部として認識していました。
   私のような、下らなくて奇矯な人間がこの世に一人くらい居ても良いのではないか…?ところが当の本人は、今すぐにでも消えて無くなってしまいたいと思っているネガティヴな自分が居るのです。社会という歯車にはまり込んで機能することの出来ない人間なのです。このような無様で醜い私をどうかお許しください。
   私は両親が残していった。二千万円に一切手を付けなかったのが唯一の誇り※です。

   「私は運命を感じたものに身を委ねます。」これが大学生活の五年間に確信めいた唯一の希望の光でした。女性関係も適当に済ませる様な淡白なお付き合いとなって、誰かに依存する事も有りませんでした。

   そもそも彼女達の目的はあくまでもバンドで演奏している私との一時の火遊びをしたかったからだと言うのが後々分かりました。

   あとがき

 大学時代に培った事は、忍耐と貧困でありました。絵画に対する事柄については、机上の空論であって、理屈を無理矢理学んだだけで、私の作風には何の影響を及ぼす事はありませんでした。私は基本的に勉強というものが嫌いで、のみならず理不尽なlことでさえ思っていました。勉強の為にテストをするのか、テストの為に勉強するのか?何がなんだか皆目見当も付きませんでした。
 人間として、全ての価値観と処世術、自我の目覚め等人として、ものの捉え方を修得したのも当時の懐かしい思い出です。

シナリオのない物語 完