空海の祥月命日21日[以下引用」  東寺の講堂内部に安置されている多数の仏像は国宝、重要文化財が多く、大変、興味のある 寺です 都名所図会 東寺 八 幡山教王護国寺秘密伝法院〔東寺又左寺とも号す〕大宮の西八条の南にあり、真言宗の源にして、開祖は弘法大師。旧此地は大内裏の鴻臚館にして、来朝の賓客 を設る所なり。漢朝の鴻臚館を不空三蔵に給て精舎を営し其例に准じて、弘仁四年左寺を空海に給ひ、右寺を守敏に賜ふ。抑弘法大師は讃州多度の郡屏風浦の産 にして、光仁帝宝亀五年に誕じ給へり、十八歳にして大学に至り志仏経にありて遂に出家して、延暦十四年東大寺の檀にのぼり、具足戒をうけ、名を空海と改 む。霊夢によりて和州高市郡久米の道場の東塔の下にて、大毘廬遮那神変加持経を得たり。文議暁しがたければ延暦廿三年五月に入唐して、唐の貞元廿一年二月 十一日、青龍寺の慧果阿闍梨に謁し、かの経の奥義真言秘密をつたへ、大同元年十月に帰朝して伝来の密法を弘む。ある時嵯峨天皇勅ありて、内裏において諸宗 の名僧をあつめ、空海にめんめん尋る所の宗義を論ぜさせ給ふに、空海の曰、我宗は大日神変の真言一度阿字を観ずれば即身成仏すといへり、諸宗一同にこれを やぶり議論をさまらざりければ、帝空海に即身成仏のしるしをなすべしと勅ありければ、則五蔵三摩地観に入、忽首より五仏の宝冠を出し身より五色の光明を放 ち、面貌金色にして毘廬遮那仏となる。帝は御座よりくだり給ひ、諸宗の僧は合掌して地にふしけり、これより議論なかりければ、宗風日本に弘り、弘仁七年に 紀州高野山を賜て金剛峰寺を建立し、仁明帝御宇承和二年三月廿一日六十二歳にして高野山に入定し給ふ。其後延喜廿一年に弘法大師と謚を宣下し給へり。〔日 本に生死不思議の人三人あり。生あつて死なきは空海、死はあつて生のなきは天満神、生も死もなきは人丸なり〕 〈『都名所図会』(安永9(1780)年刊行)より 東寺〉 真言宗の総本山で、平成六年(一九九四)に世界文化遺産に登録された。平安遷都とともに延暦十五年(七九六)、羅城門(らじょうもん)の東に東国(左京) の鎮護のために建てられたのが当寺の起こりで、弘仁十四年(八二三)、空海(弘法大師)に下賜され、名を教王護国寺と改めて真言宗の根本道場となった。学 僧名僧も多く居住し、朝廷・公家・武家の信仰が厚く、事あるごとに祈祷(きとう)法会が行われ、中世には多くの寺領も寄せられた。創建の後、度々兵火にか かったが、そのつど再建された。 五重の塔(国宝)は寛永二十一年(一六四四)の徳川家光による再建で、総高五十五メートル、現存する木造塔としては我が国最高である。講堂(重要文化財) 内部には大日如来を中心に仏像が安置され、平安初期密教美術の宝庫となっている。大師堂(国宝)は大師の御影を祀ることから御影堂(みえどう)とも呼ば れ、寝殿造を伝える数すくない遺構としても有名である。なお、塔、金堂(こんどう・国宝)などの配置も古式を示している。これらのほか、仏像、絵画、工 芸、書籍等、多数の国宝を蔵し、仏教芸術の宝庫を成している。 一方、弘法大師に対する庶民の信仰も深く、毎月二十一日の大師の命日(ご縁日)には「弘法さん」と親しまれる市が開かれ、数万人の参詣者でにぎわう。特に 十二月の終(しま)い弘法には、ひときわ多くの人が訪れる。 京都市 ◆上は教王護国寺(東寺)の南大門の門前西に掲げてある京都市の由緒書をそのまま再録しています。※ 東寺の講堂内部に安置されている多数の仏像は国宝、 重要文化財が多く、大変、興味のある寺です。 秘鍵大師と呼ばれるお大師さまのお姿があります。剣をお持ちになったお姿です。お大師さまが「般若心経」を解説された「般若心経秘鍵」のなかで、「文殊の 利剣は諸戯を断つ 覚母の梵文は調御の師なり チクマンの真言を種子と為す 諸経を含蔵せる陀羅尼なり」と述べられています。文殊の利剣とは、文殊菩薩さ まがお持ちのなっている剣のことで、諸戯というのは為にならない言論や判断のことです。チクは般若菩薩さまのこと、マンとは文殊菩薩さまのことです。陀羅 尼は、教えのエッセンスをこめた呪文のことです。 お大師さまは般若心経秘鍵のなかで般若心経はあらゆるお経のエッセンスを含んだもので、全てのものごと を正しく理解し悟りに到る為の最も重要な要素である、般若と知恵の教えであることを説いておられるのです。秘鍵大師のお姿は、お大師さまが文殊の利剣をお 持ちになったお姿です。利剣は利生(りしょう)のことで、お大師さまが文殊菩薩の三昧耶に入り、文殊菩薩となって衆生を利益する誓願の象徴的なあらわれな のです。「仏法遙(はる)かに非(あら)ず 心中にして即(すなわ)ち近し 京都錦秋11 東寺=教王護国寺 空海の教え伝えて ☆旅の終わりに 東寺 (とうじ)は、京都市南区九条町にある全真言宗の総本山、根本道場であり、東寺 真言宗総本山の寺院。「教王護国寺」とも呼ばれる。山号は八幡山。本尊は薬師如来。 東寺 は平安京鎮護のための寺院として計画された後、嵯峨 天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺 は 弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。昭 和9年(1934年)に国の史跡に指定、平成6年(1994年)12月には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。 何度かの火災を経て、東寺 には創建当時の建物は残っていないが、南大門 ・金堂・講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。 金堂 国宝。東寺 の中心堂宇で、諸堂塔のうちもっとも早く建設が始められ、東寺 が 空海に下賜された弘仁14年(823年)までには完成していたと推定される。現存の建物は慶長8年(1603年)、豊臣秀頼の寄進によって再建したもの で、奉行として片桐且元が任にあたった。入母屋造本瓦葺きで、外観からは二重に見えるが一重裳階(もこし)付きである。建築様式は和様と大仏様(天竺 様)が併用され、貫や挿肘木を多用して高い天井を支える点に大仏様の特色が見られる。 内部は広大な空間の中に本尊の薬師如来坐像と日光菩薩、月光菩薩の両脇侍像が安置されている。 講堂 重要文化財。金堂の背後(北)に建つ。天長2年(825年)空海により着工、承和2年(835年)頃完成した。当初の堂は文明18年(1486年)の土一 揆 に よる火災で焼失し、室町時代の延徳3年(1491年)に再建されたのが現存する講堂である。単層入母屋造で純和様である。金堂が顕教系の薬師如来を本尊と するのに対し、講堂には大日如来を中心とした密教尊を安置する。すなわち、須弥壇中央には大日如来を中心とする五体の如来像(五仏、五智如来)、向かって 右(東方)には金剛波羅密多菩薩を中心とする五体の菩薩像(五大菩薩)、向かって左(西方)には不動明王を中心とした五体の明王像(五大明王)が安置され ている。また、須弥壇の東西端にはそれぞれ梵天・帝釈天像、須弥壇の四隅には四天王像が安置されている。以上、全部で21体の彫像が整然と安置され、羯磨 曼荼羅(立体曼荼羅)を構成している。これら諸仏は、日本最古の本格的な密教彫像であり、全体の構想は空海によるものとされる。21体の仏像のうち、五仏 (重要文化財に指定)のすべてと五大菩薩の中尊像は室町時代から江戸時代の補作であるが、残りの15体は講堂創建時の像で、平安時代前期を代表する密教彫 像として国宝に指定されている。 五重塔 国宝。東寺 の みならず京都のシンボルとなっている塔である。高さ54.8メートルは木造塔としては日本一の高さを誇る。天長3年(826年)空海により、創建着手には じまるが、実際の創建は空海没後の9世紀末であった。雷火や不審火で4回焼失しており、現在の塔は5代目で、寛永21年(1644年)、徳川家光の寄進で 建てられたものである。 。空海が諸仏像の計画をなし、弟子の『実恵』によって完成したと言われるものです。3月21日は空海の命日(入定した日)にあたる縁日は、大変有名です。  空海と教王護国寺  この寺は、弘法大師(空海)に縁(ゆかり)のある寺です。昔、平安の都を造った時、2年後の796年に、都城鎮護のために創建された、官立の寺(教王護 国寺)です。その大きさは、2町四方の広大な境内を持つ、大寺院でした。   空海は、804年(31歳の時)、遣唐使として、唐にわたりました。 空海は、唐の都(長安)にある青竜寺の《恵果和尚》に《真言密教》の真髄を学び、《阿闍梨》の位を授けられ、「遍照金剛」と言う僧号を貰って、日本に帰り ました。四国順礼で「南無大師遍照金剛」と書かれているのを良く見ますね。  伝えによる と、日本に帰ってから、筑紫の国で3年過ごし、809年、都に戻り、高雄山寺(京都)に入り、真言宗の布教活動に努めます。有名な《最澄》(伝教大師)も 空海から潅頂(かんじょう)を受け、形のうえでは、弟子になりました。 ★《薬子の変》と空海  810年には、都で『藤原薬子の変』が起こりました。この時、空海は『鎮護国家』の修法を行いたいと、朝廷に申し入れます。嵯峨天皇は、大いに喜び、空 海に命じます。この変も、時の大納言《坂上田村麻呂・清水寺に縁のある人物》の活躍でおさまります。これを機会に、天皇と空海の関係は、極めて親密になっ ていきます。  816年には、朝廷は、空海の要望を聞き入れ、高野山にお寺(金剛峰寺)の造営を許可します。  821年には、讃岐国の国司がら朝廷に出されていた満濃池の改修の要望を、空海に命じました。早速、これにとりかかり、空海を慕って、工事に参加する多 数の庶民のおかげで、堤防をアーチ型に改造し、瞬く間に、『満濃池』の補修を終えました。唐で学んだ土木技術が役にたちました。現在でも、満濃池は使われ ています。日本一大きな『池』だそうです。 ★東寺を授かる  その後、空海の弟子が多くなり、高雄山寺ではてぜまであろうと、朝廷から、教王護国寺(東寺)を授かります。(828年頃)、空海は喜んでこの寺を頂戴 し、この寺を、「真言宗」を広める為の中心拠点(根本中堂)にしました。 ★東寺を弟子に与え、高野山へ しかし、この寺を弟子の《実恵》に与え、高野山の金剛峰寺に登ります。・・・と言うような訳で、旅の最初に空海が登場した訳です。   弘法大師・空海は、774年(宝亀5年)6月15日讃岐国 (さぬきノくに、香川県) 多度郡(たどノごおり) 屏風浦(びょうぶがうら)の「善通寺 (ぜんつうじ)」で生まれ、 父は郡司で、佐伯直田公(さえきノあたえたきみ)、善通 (よしみち)、母は阿刀(あと) 氏 の出で、阿古屋(あこや)、玉依御前(たまよりごぜん)、 兄二人は幼少に他界し、 三男空海は幼少の頃から佐伯家(先祖は大伴氏の分家) の跡取として育てら れ、幼 名を真魚(まお)と云い、貴物(とうともの)と呼ばれました。 なお、6月15日は密経経 典をセイロンから唐へ最初に伝えた真言密教付法第六 「不空 (ふくう)三蔵」が入 滅した日で、空海は不空の生まれ変わりと云われています。 善通寺御影堂(大師堂) 空海の生まれた屋敷跡 善通寺東院にある楠の巨樹 真魚もこの巨樹を見て育った? 777年(宝亀8年)6月空海4歳の時、讃岐の沖を西へ帆走する丹塗りの四つノ船(第 16次遣唐使船、大使・佐伯今毛人は病と称して乗船せず、副使・小野石根が代行し、大伴益立、藤原鷹取、大神末足らが乗船)を見ましたが、5、6歳頃の空 海は夢で八葉の蓮華の上に座り、慈悲に満ちた御仏達と楽しく話しをするのが常でしたが、翌年(宝亀9年)長安に到着した小野石根らは帰国の時に遭難死しま した。  780年(宝亀11年)空海7歳は、家の西にある捨身岳(しゃしんがたけ)に登り、「私は将来、仏道で多くの人を救いたいと思いま す。この願いが叶うならば命を救って下さい。もし叶わないならば命を捨ててこの身を仏に供養します」と云い、崖の上から谷底めがけて身を投げると、釈迦如 来と天女が現れ真魚を受け止めてくれたので、後にその山の名を空海が我拝師山(がはいしざん)と改め、山上に第73番札所「出釈迦寺(しゅっしゃかじ)」 を建立し、本尊として空海が自(みずか)ら刻んだ釈迦如来像を安置しました。  781年(天応元年)空海8歳の春、4月15日平城京 で山部親王(やまべノみこ、光仁天皇 の第一皇子)が、風病と老齢(73歳)を理由に退位した父帝に代わり、第50代桓武天皇に即位し、同母弟・早良親王 が立太子に立ちました。  784年(延暦3年)5月7日難波に体長4寸(≒12cm)ほどで、黒い斑をしたガマの大群が現れ、その数ざっと2万匹、見ていると 3町(≒327m)の大行列をつくり、南へ向かって行進し、四天王寺の境内に入って、その内どこかへ消え去ったと、「続日本紀」に摂津職からの報告として 記載されていますが、この頃、平城京 からの遷都(せんと)が計画され、6月長岡京の造営に着工し、11月11日桓武天皇は、未だ完成もしていない長岡京へ遷都しました。  785年(延暦4年)空海12歳の時、両親が云った事が、「遺言真然大徳等(ゆいごうしんぜんだいとくとう)全集2・814頁に記載 され、それによると、「我が子は昔、釈迦の弟子だったのでしょう。両親が同じ夢を見、印度の立派なお坊さんがスーと懐に入って、母が身ごもり、そして生ま れた子だから、将来仏弟子にしましょう」とあり、これを聞いた空海は大変嬉しく思い、泥をこねて仏像を作り、家の近くに小さなお堂を建てて安置し、毎日礼 拝するのが常でしたが、この年(延暦4年)最澄(さいちょう)19歳が東大寺 で 具足戒(ぐそくかい)を受け、9月23日長岡京造営使の藤原種継(たねつぐ)が暗殺され、罪をかぶせられた早良親王が山城国(やましろノくに、京都府長岡 京市)「乙訓寺(おとくにでら、現在ボタンの名所)」へ幽閉され、自ら食を断ち、淡路へ流される途中、淀川の高瀬橋付近で餓死しました。  788年(延暦7年)前年末から5ヶ月旱魃http://www.youtube.com/?gl=JP&hl=ja(かんばつ)が続き、4月10日朝廷が丹生川上神社 に 黒駒を奉じて祈雨(あまごい)をすると、16日天が俄かにかき曇り降雨があった頃、空海15歳は長岡京に上京し、叔父(母の弟)の儒学者・阿刀大足(あと ノおおたり)に論語・孝経・史伝などの漢籍を学びましたが、叔父は従五位下、桓武天皇の第三皇子・伊予(いよ)親王の侍講(じこう、個人教授)を勤めてい ました。    791年(延暦11年)空海18歳は、当時日本に1つしかない官吏養成の最高機関であった大学寮の明経科(みょうきょうか)に入学し、岡田牛養(おかだ ノうしかい)、味酒浄成(うまざけノきよなり)に漢籍を学びましたが、また、ある沙門(しゃもん)の一人から虚空蔵求聞持法(こ くうぞうぐもんじほう、もし人がここに示した修法によりこの真言を百万遍誦ずれば一切の教法文義を暗記する事ができると書かれている)を授けられ、大学を 退学して、私度僧になり、阿波(徳島)の太瀧嶽(だいりょうだけ)などで求聞持法を行じ、土佐(高知)http://www.google.co.jp/室戸岬の洞窟で、夜を徹して一心不乱に虚空蔵菩薩 (こくうぞうぼさつ)の真言(しんごん、悟りを得る一種の呪文)を唱えていたら、夜明け前に太平洋の彼方から明星(みょうじょう、虚空蔵菩薩の化身)が飛 来し、阿(あ)と叫ぶと、口より体内に飛び込みました。なお、吉野の大峯山 や、伊予(愛媛)の石鎚山(いしづちさん)などでも修行をしましたが、いずれも何故だか水銀や金、銀、銅などが産出する地で、また、「弘法穴」と云えば、 炭窯の煙を出す穴のことで、空海が考案しました。 初重内部の壁や柱には両界曼荼羅や真言八祖像を描き、須弥壇には心柱を中心にして金剛界四仏像と八大菩薩像を安置する

真言宗の総本山で、平成六年(一九九四)に世界文化遺産に登録された。平安遷都とともに延暦十五年(七九六)、羅城門(らじょうもん)の東に東国(左京) の鎮護のために建てられたのが当寺の起こりで、弘仁十四年(八二三)、空海(弘法大師)に下賜され、名を教王護国寺と改めて真言宗の根本道場となった。学 僧名僧も多く居住し、朝廷・公家・武家の信仰が厚く、事あるごとに祈祷(きとう)法会が行われ、中世には多くの寺領も寄せられた。創建の後、度々兵火にか かったが、そのつど再建された。
五重の塔(国宝)は寛永二十一年(一六四四)の徳川家光による再建で、総高五十五メートル、現存する木造塔としては我が国最高である。講堂(重要文化財) 内部には大日如来を中心に仏像が安置され、平安初期密教美術の宝庫となっている。大師堂(国宝)は大師の御影を祀ることから御影堂(みえどう)とも呼ば れ、寝殿造を伝える数すくない遺構としても有名である。なお、塔、金堂(こんどう・国宝)などの配置も古式を示している。これらのほか、仏像、絵画、工 芸、書籍等、多数の国宝を蔵し、仏教芸術の宝庫を成している。
一方、弘法大師に対する庶民の信仰も深く、毎月二十一日の大師の命日(ご縁日)には「弘法さん」と親しまれる市が開かれ、数万人の参詣者でにぎわう。特に十二月の終(しま)い弘法には、ひときわ多くの人が訪れる。 京都市
◆上は教王護国寺(東寺)の南大門の門前西に掲げてある京都市の由緒書をそのまま再録しています。※ 東寺の講堂内部に安置されている多数の仏像は国宝、重要文化財が多く、大変、興味のある寺です。

秘鍵大師と呼ばれるお大師さまのお姿があります。剣をお持ちになったお姿です。お大師さまが「般若心経」を解説された「般若心経秘鍵」のなかで、「文殊の 利剣は諸戯を断つ 覚母の梵文は調御の師なり チクマンの真言を種子と為す 諸経を含蔵せる陀羅尼なり」と述べられています。文殊の利剣とは、文殊菩薩さ まがお持ちのなっている剣のことで、諸戯というのは為にならない言論や判断のことです。チクは般若菩薩さまのこと、マンとは文殊菩薩さまのことです。陀羅 尼は、教えのエッセンスをこめた呪文のことです。 お大師さまは般若心経秘鍵のなかで般若心経はあらゆるお経のエッセンスを含んだもので、全てのものごと を正しく理解し悟りに到る為の最も重要な要素である、般若と知恵の教えであることを説いておられるのです。秘鍵大師のお姿は、お大師さまが文殊の利剣をお 持ちになったお姿です。利剣は利生(りしょう)のことで、お大師さまが文殊菩薩の三昧耶に入り、文殊菩薩となって衆生を利益する誓願の象徴的なあらわれな のです。「仏法遙(はる)かに非(あら)ず 心中にして即(すなわ)ち近し
京都錦秋11 東寺=教王護国寺 空海の教え伝えて ☆旅の終わりに
東寺 (とうじ)は、京都市南区九条町にある全真言宗の総本山、根本道場であり、東寺 真言宗総本山の寺院。「教王護国寺」とも呼ばれる。山号は八幡山。本尊は薬師如来。

東寺 は平安京鎮護のための寺院として計画された後、嵯峨 天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺 は 弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。昭 和9年(1934年)に国の史跡に指定、平成6年(1994年)12月には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。

何度かの火災を経て、東寺 には創建当時の建物は残っていないが、南大門 ・金堂・講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。

金堂
国宝。東寺 の中心堂宇で、諸堂塔のうちもっとも早く建設が始められ、東寺 が 空海に下賜された弘仁14年(823年)までには完成していたと推定される。現存の建物は慶長8年(1603年)、豊臣秀頼の寄進によって再建したもの で、奉行として片桐且元が任にあたった。入母屋造本瓦葺きで、外観からは二重に見えるが一重裳階(もこし)付きである。建築様式は和様と大仏様(天竺 様)が併用され、貫や挿肘木を多用して高い天井を支える点に大仏様の特色が見られる。
内部は広大な空間の中に本尊の薬師如来坐像と日光菩薩、月光菩薩の両脇侍像が安置されている。

講堂
重要文化財。金堂の背後(北)に建つ。天長2年(825年)空海により着工、承和2年(835年)頃完成した。当初の堂は文明18年(1486年)の土一揆 に よる火災で焼失し、室町時代の延徳3年(1491年)に再建されたのが現存する講堂である。単層入母屋造で純和様である。金堂が顕教系の薬師如来を本尊と するのに対し、講堂には大日如来を中心とした密教尊を安置する。すなわち、須弥壇中央には大日如来を中心とする五体の如来像(五仏、五智如来)、向かって 右(東方)には金剛波羅密多菩薩を中心とする五体の菩薩像(五大菩薩)、向かって左(西方)には不動明王を中心とした五体の明王像(五大明王)が安置され ている。また、須弥壇の東西端にはそれぞれ梵天・帝釈天像、須弥壇の四隅には四天王像が安置されている。以上、全部で21体の彫像が整然と安置され、羯磨 曼荼羅(立体曼荼羅)を構成している。これら諸仏は、日本最古の本格的な密教彫像であり、全体の構想は空海によるものとされる。21体の仏像のうち、五仏 (重要文化財に指定)のすべてと五大菩薩の中尊像は室町時代から江戸時代の補作であるが、残りの15体は講堂創建時の像で、平安時代前期を代表する密教彫 像として国宝に指定されている。

五重塔
国宝。東寺 の みならず京都のシンボルとなっている塔である。高さ54.8メートルは木造塔としては日本一の高さを誇る。天長3年(826年)空海により、創建着手には じまるが、実際の創建は空海没後の9世紀末であった。雷火や不審火で4回焼失しており、現在の塔は5代目で、寛永21年(1644年)、徳川家光の寄進で 建てられたものである。

。空海が諸仏像の計画をなし、弟子の『実恵』によって完成したと言われるものです。3月21日は空海の命日(入定した日)にあたる縁日は、大変有名です。


 空海と教王護国寺

 この寺は、弘法大師(空海)に縁(ゆかり)のある寺です。昔、平安の都を造った時、2年後の796年に、都城鎮護のために創建された、官立の寺(教王護国寺)です。その大きさは、2町四方の広大な境内を持つ、大寺院でした。 

 空海は、804年(31歳の時)、遣唐使として、唐にわたりました。

空海は、唐の都(長安)にある青竜寺の《恵果和尚》に《真言密教》の真髄を学び、《阿闍梨》の位を授けられ、「遍照金剛」と言う僧号を貰って、日本に帰りました。四国順礼で「南無大師遍照金剛」と書かれているのを良く見ますね。

 伝えによる

と、日本に帰ってから、筑紫の国で3年過ごし、809年、都に戻り、高雄山寺(京都)に入り、真言宗の布教活動に努めます。有名な《最澄》(伝教大師)も空海から潅頂(かんじょう)を受け、形のうえでは、弟子になりました。

★《薬子の変》と空海

 810年には、都で『藤原薬子の変』が起こりました。この時、空海は『鎮護国家』の修法を行いたいと、朝廷に申し入れます。嵯峨天皇は、大いに喜び、空 海に命じます。この変も、時の大納言《坂上田村麻呂・清水寺に縁のある人物》の活躍でおさまります。これを機会に、天皇と空海の関係は、極めて親密になっ ていきます。

 816年には、朝廷は、空海の要望を聞き入れ、高野山にお寺(金剛峰寺)の造営を許可します。

 821年には、讃岐国の国司がら朝廷に出されていた満濃池の改修の要望を、空海に命じました。早速、これにとりかかり、空海を慕って、工事に参加する多 数の庶民のおかげで、堤防をアーチ型に改造し、瞬く間に、『満濃池』の補修を終えました。唐で学んだ土木技術が役にたちました。現在でも、満濃池は使われ ています。日本一大きな『池』だそうです




★東寺を授かる

 その後、空海の弟子が多くなり、高雄山寺ではてぜまであろうと、朝廷から、教王護国寺(東寺)を授かります。(828年頃)、空海は喜んでこの寺を頂戴し、この寺を、「真言宗」を広める為の中心拠点(根本中堂)にしました。

★東寺を弟子に与え、高野山へ

しかし、この寺を弟子の《実恵》に与え、高野山の金剛峰寺に登ります。・・・と言うような訳で、旅の最初に空海が登場した訳
です。




  弘法大師・空海は、774年(宝亀5年)6月15日讃岐国
(さぬきノくに、香川県)
多度郡(たどノごおり) 屏風浦(びょうぶがうら)の「善通寺
(ぜんつうじ)」で生まれ、
父は郡司で、佐伯直田公(さえきノあたえたきみ)、善通
(よしみち)、母は阿刀(あと)
氏 の出で、阿古屋(あこや)、玉依御前(たまよりごぜん)、
兄二人は幼少に他界し、
三男空海は幼少の頃から佐伯家(先祖は大伴氏の分家)
の跡取として育てら れ、幼
名を真魚(まお)と云い、貴物(とうともの)と呼ばれました。
なお、6月15日は密経経
典をセイロンから唐へ最初に伝えた真言密教付法第六
「不空 (ふくう)三蔵」が入
滅した日で、空海は不空の生まれ変わりと云われています。

善通寺御影堂(大師堂)
空海の生まれた屋敷跡


善通寺東院にある楠の巨樹
真魚もこの巨樹を見て育った?

777年(宝亀8年)6月空海4歳の時、讃岐の沖を西へ帆走する丹塗りの四つノ船(第 16次遣唐使船、大使・佐伯今毛人は病と称して乗船せず、副使・小野石根が代行し、大伴益立、藤原鷹取、大神末足らが乗船)を見ましたが、5、6歳頃の空 海は夢で八葉の蓮華の上に座り、慈悲に満ちた御仏達と楽しく話しをするのが常でしたが、翌年(宝亀9年)長安に到着した小野石根らは帰国の時に遭難死しま した。

 780年(宝亀11年)空海7歳は、家の西にある捨身岳(しゃしんがたけ)に登り、「私は将来、仏道で多くの人を救いたいと思いま す。この願いが叶うならば命を救って下さい。もし叶わないならば命を捨ててこの身を仏に供養します」と云い、崖の上から谷底めがけて身を投げると、釈迦如 来と天女が現れ真魚を受け止めてくれたので、後にその山の名を空海が我拝師山(がはいしざん)と改め、山上に第73番札所「出釈迦寺(しゅっしゃかじ)」 を建立し、本尊として空海が自(みずか)ら刻んだ釈迦如来像を安置しました。

 781年(天応元年)空海8歳の春、4月15日平城京 で山部親王(やまべノみこ、光仁天皇 の第一皇子)が、風病と老齢(73歳)を理由に退位した父帝に代わり、第50代桓武天皇に即位し、同母弟・早良親王 が立太子に立ちました。

 784年(延暦3年)5月7日難波に体長4寸(≒12cm)ほどで、黒い斑をしたガマの大群が現れ、その数ざっと2万匹、見ていると 3町(≒327m)の大行列をつくり、南へ向かって行進し、四天王寺の境内に入って、その内どこかへ消え去ったと、「続日本紀」に摂津職からの報告として 記載されていますが、この頃、平城京 からの遷都(せんと)が計画され、6月長岡京の造営に着工し、11月11日桓武天皇は、未だ完成もしていない長岡京へ遷都しました。

 785年(延暦4年)空海12歳の時、両親が云った事が、「遺言真然大徳等(ゆいごうしんぜんだいとくとう)全集2・814頁に記載 され、それによると、「我が子は昔、釈迦の弟子だったのでしょう。両親が同じ夢を見、印度の立派なお坊さんがスーと懐に入って、母が身ごもり、そして生ま れた子だから、将来仏弟子にしましょう」とあり、これを聞いた空海は大変嬉しく思い、泥をこねて仏像を作り、家の近くに小さなお堂を建てて安置し、毎日礼 拝するのが常でしたが、この年(延暦4年)最澄(さいちょう)19歳が東大寺 で 具足戒(ぐそくかい)を受け、9月23日長岡京造営使の藤原種継(たねつぐ)が暗殺され、罪をかぶせられた早良親王が山城国(やましろノくに、京都府長岡 京市)「乙訓寺(おとくにでら、現在ボタンの名所)」へ幽閉され、自ら食を断ち、淡路へ流される途中、http://minakoe.jp/blog_rank/site_info/7_ameblo_2ejp_2f3684_2f/淀川の高瀬橋付近で餓死しました。

 788年(延暦7年)前年末から5ヶ月旱魃(かんばつ)が続き、4月10日朝廷が丹生川上神社 に 黒駒を奉じて祈雨(あまごい)をすると、16日天が俄かにかき曇り降雨があった頃、空海15歳は長岡京に上京し、叔父(母の弟)の儒学者・阿刀大足(あと ノおおたり)に論語・孝経・史伝などの漢籍を学びましたが、叔父は従五位下、桓武天皇の第三皇子・伊予(いよ)親王の侍講(じこう、個人教授)を勤めてい ました。
 
 791年(延暦11年)空海18歳は、当時日本に1つしかない官吏養成の最高機関であった大学寮の明経科(みょうきょうか)に入学し、岡田牛養(おかだ ノうしかい)、味酒浄成(うまざけノきよなり)に漢籍を学びましたが、また、ある沙門(しゃもん)の一人から虚空蔵求聞持法(こ くうぞうぐもんじほう、もし人がここに示した修法によりこの真言を百万遍誦ずれば一切の教法文義を暗記する事ができると書かれている)を授けられ、大学を 退学して、私度僧になり、阿波(徳島)の太瀧嶽(だいりょうだけ)などで求聞持法を行じ、土佐(高知)室戸岬の洞窟で、夜を徹して一心不乱に虚空蔵菩薩 (こくうぞうぼさつ)の真言(しんごん、悟りを得る一種の呪文)を唱えていたら、夜明け前に太平洋の彼方から明星(みょうじょう、虚空蔵菩薩の化身)が飛 来し、阿(あ)と叫ぶと、口より体内に飛び込みました。なお、吉野の大峯山 や、伊予(愛媛)の石鎚山(いしづちさん)などでも修行をしましたが、いずれも何故だか水銀や金、銀、銅などが産出する地で、また、「弘法穴」と云えば、炭窯の煙を出す穴のことで、空海が考案しました。

初重内部の壁や柱には両界曼荼羅や真言八祖像を描き、須弥壇には心柱を中心にして金剛界四仏像と八大菩薩像を安置する









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