かつて江戸の入口だった三田の札の辻を入ったところに、旧東海道、現在の第一京浜国道
(R15)に面して、西郷隆盛と勝海舟の会見跡地の碑がある。薩摩藩邸下屋敷跡で、切絵図
を見るとその敷地は江戸湾に突き出ている。
幕末、ここで西郷・勝会見によって江戸が無事官軍に明け渡されるまでの半年間、 急転直下の展開があった。二人の会談が決裂したとき、いずれにしても江戸は火の海 になるはずであった。西郷は会見が決裂したら江戸を焼き討ち、勝は官軍が攻め込んだら 江戸の街に放火して食止めるよう、密かに火消の新門辰五郎に命じていたという。
半年前の慶応三年(1867)十月十四日、薩摩藩は藩兵を京に集め、急進派の公家とはかって 少年天皇から倒幕の密勅を手に入れ、武力をもって幕府を倒そうとした。ところが同じ日、 最期の将軍慶喜は政権を朝廷に返して、旧将軍を議長とする藩主会議で国政を握る「大政 奉還」による「公武合体論」を朝廷に請うて、翌日には許可を得てしまった。
驚いたのは江戸の老中等で、続々と京へ駆け付け、京都守護の会津藩兵や新撰組を加えると 幕府軍は一万の兵に達し、薩摩藩の倒幕密勅の実施は無期延期されてしまった。しかし、 それで退き下がるはずもなく、十二月九日、京都御所は突然薩摩藩兵でかためられ、 幕府の廃止と徳川家の領地を没収し、朝廷が直接政治を行という「王政復古」を宣言した。
一挙に権力の座を追われた慶喜は大阪城へ引き上げたが、武力によって徳川幕府に一撃を 加えねばならぬと考えた薩摩の西郷隆盛は、子分の藩士益満休之助に江戸市中の撹乱を 命じた。これは今にはじまったわけではない。既に一年前から尊王攘夷派の浪人を募り、 甲府・小田原の両城を占拠、また野州出流山(栃木県)に地元の浪人を集めたゲリラ部隊に よって関東撹乱を決行しようとしたが、先に水戸天狗党の略奪・放火の被害を受けた地元 民の通報で、関八州取締出役の率いる農兵隊の奇襲をうけて失敗していた。
益満は再びその浪士隊をもって江戸市中の撹乱を決行した。江戸や近郊の多摩に薩摩藩士を名乗る強盗が横行、薩摩屋敷に近い芝赤羽橋にあった江戸市中警備の 新徴組屯所に小銃が打ち込まれ、人影を追ってみると薩摩屋敷に消えたという。そして年末の十二月二十日には江戸城二の丸が炎上、薩摩の放火と噂が飛んだ。
勝海舟は薩摩の挑発に乗るなと制していたが、遂に五日後には幕府側は薩摩屋敷を取り囲んで総攻撃、焼打にしてしまった。これを伝え聞いた大阪の慶喜と幕臣 は狂喜して、一万五千の大軍をもって伏見・鳥羽街道を進軍させ、薩・長軍を追討して朝廷を奪回しようとしたが、五千の兵と新鋭の鉄砲をもつ薩・長連合軍 は、待ってましたとばかりに幕府軍や新撰組を粉砕してしまった。この目も当てられない敗北に、慶喜は余りのショックで、大阪に兵を残したまま一人軍艦で江 戸へ逃亡してしまったことである。
三田薩摩屋敷の西郷隆盛と勝海舟の江戸明渡しの会見は、それから三ヶ月後であった。 もっとも会見の場所は池上本門寺という説もあって、いづれ秘密会見だろうから、はっきりしたことは分からない。
因みに薩摩屋敷の浪士隊には、旧甲州街道駒木野宿の子仏関所関守の息子、落合源一郎直亮 などが参加して、後に偽官軍の汚名を着せられて処分された。西郷という男、風貌から受ける印象と異なり、 やることは只者ではないのだ。
上野の山にある西郷隆盛の銅像は、元来、皇居前広場に、楠木正成や和気清麻呂などの 銅像と同様に「忠臣」として計画された。しかし、西南戦争によって一度は「逆賊」で あったと横槍が入って、急遽上野へ移された。
では何故「逆賊」の銅像が建てられることになったのか。 西郷隆盛は「革命」というものの本質をとことんまで知っていた。いうまでもなく、明 治維新にいたる倒幕運動は革命として推進された。幕府を倒し、明治新政府ができると、 維新の元勲たちは、そこで革命運動を中止、それ以後の運動を弾圧した。
西郷を担いだ西南戦争は、表向きは明治新政府の士族廃止政策に反対する決起であったが、 その実、西郷が抱いた永久革命の、姿を代えた戦いである。革命は永久に回転しなければ、 それを担った者が再び権力の座に居座ることになる。事実、その姿こそ明治新政府の権力 者であった。
永久革命を回転させるために、西郷は海外派兵を明治新政府に提案した。士族廃止に反対 する不平分子の矛先をかわし、西欧列国の脅威からアジアを守るためにも、それが必要だ と主張したのである。しかし、国力の充実こそ大事と考える大久保利通らによって却下され てしまい、結局、西郷は明治新政府から弾き出された。その結果の西南戦争であった。
西郷隆盛の考えを大衆レベルで決行しようとしたのが、自由民権運動急進派による多摩 壮士たちの、大阪事件に帰結する行動であるとみなす事ができる。つまり、海外派兵に よる清国排除、いわゆる征韓論の先駆者として西郷隆盛は再び「忠臣」として還り咲い た姿こそ上野の山の西郷銅像であった。
ところが、高村光雲作の西郷像、ちっとも似ていないというのが西郷を最もよく知る 近親者の言とか。西郷ドンはさらにもっと太っ腹だったという。
幕末、ここで西郷・勝会見によって江戸が無事官軍に明け渡されるまでの半年間、 急転直下の展開があった。二人の会談が決裂したとき、いずれにしても江戸は火の海 になるはずであった。西郷は会見が決裂したら江戸を焼き討ち、勝は官軍が攻め込んだら 江戸の街に放火して食止めるよう、密かに火消の新門辰五郎に命じていたという。
半年前の慶応三年(1867)十月十四日、薩摩藩は藩兵を京に集め、急進派の公家とはかって 少年天皇から倒幕の密勅を手に入れ、武力をもって幕府を倒そうとした。ところが同じ日、 最期の将軍慶喜は政権を朝廷に返して、旧将軍を議長とする藩主会議で国政を握る「大政 奉還」による「公武合体論」を朝廷に請うて、翌日には許可を得てしまった。
驚いたのは江戸の老中等で、続々と京へ駆け付け、京都守護の会津藩兵や新撰組を加えると 幕府軍は一万の兵に達し、薩摩藩の倒幕密勅の実施は無期延期されてしまった。しかし、 それで退き下がるはずもなく、十二月九日、京都御所は突然薩摩藩兵でかためられ、 幕府の廃止と徳川家の領地を没収し、朝廷が直接政治を行という「王政復古」を宣言した。
一挙に権力の座を追われた慶喜は大阪城へ引き上げたが、武力によって徳川幕府に一撃を 加えねばならぬと考えた薩摩の西郷隆盛は、子分の藩士益満休之助に江戸市中の撹乱を 命じた。これは今にはじまったわけではない。既に一年前から尊王攘夷派の浪人を募り、 甲府・小田原の両城を占拠、また野州出流山(栃木県)に地元の浪人を集めたゲリラ部隊に よって関東撹乱を決行しようとしたが、先に水戸天狗党の略奪・放火の被害を受けた地元 民の通報で、関八州取締出役の率いる農兵隊の奇襲をうけて失敗していた。
益満は再びその浪士隊をもって江戸市中の撹乱を決行した。江戸や近郊の多摩に薩摩藩士を名乗る強盗が横行、薩摩屋敷に近い芝赤羽橋にあった江戸市中警備の 新徴組屯所に小銃が打ち込まれ、人影を追ってみると薩摩屋敷に消えたという。そして年末の十二月二十日には江戸城二の丸が炎上、薩摩の放火と噂が飛んだ。
勝海舟は薩摩の挑発に乗るなと制していたが、遂に五日後には幕府側は薩摩屋敷を取り囲んで総攻撃、焼打にしてしまった。これを伝え聞いた大阪の慶喜と幕臣 は狂喜して、一万五千の大軍をもって伏見・鳥羽街道を進軍させ、薩・長軍を追討して朝廷を奪回しようとしたが、五千の兵と新鋭の鉄砲をもつ薩・長連合軍 は、待ってましたとばかりに幕府軍や新撰組を粉砕してしまった。この目も当てられない敗北に、慶喜は余りのショックで、大阪に兵を残したまま一人軍艦で江 戸へ逃亡してしまったことである。
三田薩摩屋敷の西郷隆盛と勝海舟の江戸明渡しの会見は、それから三ヶ月後であった。 もっとも会見の場所は池上本門寺という説もあって、いづれ秘密会見だろうから、はっきりしたことは分からない。
因みに薩摩屋敷の浪士隊には、旧甲州街道駒木野宿の子仏関所関守の息子、落合源一郎直亮 などが参加して、後に偽官軍の汚名を着せられて処分された。西郷という男、風貌から受ける印象と異なり、 やることは只者ではないのだ。
上野の山にある西郷隆盛の銅像は、元来、皇居前広場に、楠木正成や和気清麻呂などの 銅像と同様に「忠臣」として計画された。しかし、西南戦争によって一度は「逆賊」で あったと横槍が入って、急遽上野へ移された。
では何故「逆賊」の銅像が建てられることになったのか。 西郷隆盛は「革命」というものの本質をとことんまで知っていた。いうまでもなく、明 治維新にいたる倒幕運動は革命として推進された。幕府を倒し、明治新政府ができると、 維新の元勲たちは、そこで革命運動を中止、それ以後の運動を弾圧した。
西郷を担いだ西南戦争は、表向きは明治新政府の士族廃止政策に反対する決起であったが、 その実、西郷が抱いた永久革命の、姿を代えた戦いである。革命は永久に回転しなければ、 それを担った者が再び権力の座に居座ることになる。事実、その姿こそ明治新政府の権力 者であった。
永久革命を回転させるために、西郷は海外派兵を明治新政府に提案した。士族廃止に反対 する不平分子の矛先をかわし、西欧列国の脅威からアジアを守るためにも、それが必要だ と主張したのである。しかし、国力の充実こそ大事と考える大久保利通らによって却下され てしまい、結局、西郷は明治新政府から弾き出された。その結果の西南戦争であった。
西郷隆盛の考えを大衆レベルで決行しようとしたのが、自由民権運動急進派による多摩 壮士たちの、大阪事件に帰結する行動であるとみなす事ができる。つまり、海外派兵に よる清国排除、いわゆる征韓論の先駆者として西郷隆盛は再び「忠臣」として還り咲い た姿こそ上野の山の西郷銅像であった。
ところが、高村光雲作の西郷像、ちっとも似ていないというのが西郷を最もよく知る 近親者の言とか。西郷ドンはさらにもっと太っ腹だったという。
〈以下引用〉