■■ 九条通
お盆になると何十万という人が訪れ、迎え鐘を引き鳴らし、高野槙の枝を水に浸し、亡き人の法名を書いた水塔婆を供える。 槙の枝は、平安初期の学者小野篁がこの槙の枝を使ってあの世とこの世を往復したとの伝説による。 この期間多くの屋台が並び、年に一度だけ京都の顔になる。
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平安京の九条大路にあたる。
平安京の九条大路にあたる。
東は東大路から西は葛野大路に至る。
全長約 4.1キロ
九条通りのシンボルは、東寺である。
歴史的には、もう一つ羅城門をぬきにはできないだろう。
東寺は正しくは真言宗総本山教王護国寺と称し、平安京造営に際して、北の大極殿へ一直線の朱雀大路を跨いだ羅城門の両翼に建てられた東西二大官寺の一つ。
羅城門の東に位置したから東寺で、左寺、左大寺とも呼ばれた。
九条通りに面して建つ八脚門の南大門を正門に、境内には、今もずらりと堂塔が並んで、ありし日の姿を伝えて威容を誇る。
平安京を睥睨した五十五メートルの五重塔は、正保元年(1644)、豊臣家光が古制に則って再建した塔であり、金堂は慶長十一年(1606)、豊臣秀頼の再建で、入母屋造り、本瓦葺きで奈良大仏殿に倣ったという。
大師堂は、堂内に弘法大師坐像とその念持仏と伝える不動明王坐像などを安置し、それぞれ国宝指定の建造物である。
内部中央壇上に大日如来を中心に五仏をはじめ国宝の五大菩薩坐像などを安置した講堂は、また重要文化財で、収蔵される多くの寺宝も、『東寺百合文書』など国宝、重要文化財に指定されている。
弘仁十四年(823)に弘法大師空海に下賜されて以来、真言密教の寺として一般の信仰を集め、毎月二十一日は、宗祖弘法大師の供養法会が営まれ、広い境内ばかりでなく、寺を取り巻いて植木や古物の露店商による露店市が開かれ、「弘法さん」で親しまれている。
洛陽三十三所観音の第二十三番札所として日ごろのお参りもたえない。
西寺は、天長七年(830)に講堂を完成したものの、五重塔の建築が遅れ、正暦元年(990)二月の大火事で焼失、わずかに残った堂宇も天福元年(1233)に焼けて、のち再建はならなかった。
現在、その跡はとどめない。
平安京の正門として、北の大極殿の朱雀門と相対したのが、羅城門。
間口七間、奥行き二間でで二重の楼閣があり、屋根の両端に金色の鴟尾をあげた堂々たる姿で、平安京の南正門の威厳をあらわすのには十分であった。
楼閣には、西戎の侵略を避けたという唐の故事に倣って「兜跋毘沙門天像」を安置した。
この兜跋毘沙門天像は、東寺に現存している。
弘仁七年(816)に大風ではじめて倒壊。
さらに天元三年(980)の大暴風にも倒れた。
以後、再建は思うに任せず、摂関時代の最盛期には、すでに礎石を残すだけとなった。
その荒廃ぶりは、『今昔物語』巻二十九第十八の「羅城門の上の層に登りて死人を見たる盗人の語」などの記述にもある。
芥川龍之介の『羅城門』は、この『今昔物語』の羅城門にモチーフを得た短編小説である。
頼光四天王の一人、渡辺綱の鬼退治のエピソードはよく知られるところである。
現在、千本通上ル東側の公園に「羅城門址」の碑が建てられている。
九条大路は、この東寺と羅城門に面して、二つのシンボルと同様に平安京守護の役割をもった大路であった。
平安京造営時の大路小路のなかでも最南端に位置して、南極大路とも呼ばれた。
平安京は、中国唐の都長安を模範として築かれた都城。
中国の都城には、外敵を防ぐ目的から、まわりをぐるりと土塁を羅ねた羅城が築かれたけれど、平安京にはこうした羅城はみられない。
ただ、九条大路に沿って、その外側に高さ二メートル弱の土塁を盛り、両側に二メートルあまりの犬走りと、幅三メートルばかりの溝が築かれていた。
この土塁や溝も外敵の侵入を防ぐという機能ではなく、都城の威厳を示す装置であったようだ。
やがて平安京は、湿潤な環境を嫌っていちはやくその中心軸を左京に移すにつれて、九条大路も国家鎮護の意味を失い、さらに豊臣秀吉のお土居の造築で洛外となるにつれて田園化し、豊富な蔬菜類を産するようになる。
九条葱、九条芹はその代表であった。
大まかに西洞院通あたりを境界に、九条通の西を西九条、東を東九条と大きく分けて呼称される
平安京の九条大路にあたる。
東は東大路から西は葛野大路に至る。
全長約 4.1キロ
九条通りのシンボルは、東寺である。
歴史的には、もう一つ羅城門をぬきにはできないだろう。
東寺は正しくは真言宗総本山教王護国寺と称し、平安京造営に際して、北の大極殿へ一直線の朱雀大路を跨いだ羅城門の両翼に建てられた東西二大官寺の一つ。
羅城門の東に位置したから東寺で、左寺、左大寺とも呼ばれた。
九条通りに面して建つ八脚門の南大門を正門に、境内には、今もずらりと堂塔が並んで、ありし日の姿を伝えて威容を誇る。
平安京を睥睨した五十五メートルの五重塔は、正保元年(1644)、豊臣家光が古制に則って再建した塔であり、金堂は慶長十一年(1606)、豊臣秀頼の再建で、入母屋造り、本瓦葺きで奈良大仏殿に倣ったという。
大師堂は、堂内に弘法大師坐像とその念持仏と伝える不動明王坐像などを安置し、それぞれ国宝指定の建造物である。
内部中央壇上に大日如来を中心に五仏をはじめ国宝の五大菩薩坐像などを安置した講堂は、また重要文化財で、収蔵される多くの寺宝も、『東寺百合文書』など国宝、重要文化財に指定されている。
弘仁十四年(823)に弘法大師空海に下賜されて以来、真言密教の寺として一般の信仰を集め、毎月二十一日は、宗祖弘法大師の供養法会が営まれ、広い境内ばかりでなく、寺を取り巻いて植木や古物の露店商による露店市が開かれ、「弘法さん」で親しまれている。
洛陽三十三所観音の第二十三番札所として日ごろのお参りもたえない。
西寺は、天長七年(830)に講堂を完成したものの、五重塔の建築が遅れ、正暦元年(990)二月の大火事で焼失、わずかに残った堂宇も天福元年(1233)に焼けて、のち再建はならなかった。
現在、その跡はとどめない。
平安京の正門として、北の大極殿の朱雀門と相対したのが、羅城門。
間口七間、奥行き二間でで二重の楼閣があり、屋根の両端に金色の鴟尾をあげた堂々たる姿で、平安京の南正門の威厳をあらわすのには十分であった。
楼閣には、西戎の侵略を避けたという唐の故事に倣って「兜跋毘沙門天像」を安置した。
この兜跋毘沙門天像は、東寺に現存している。
弘仁七年(816)に大風ではじめて倒壊。
さらに天元三年(980)の大暴風にも倒れた。
以後、再建は思うに任せず、摂関時代の最盛期には、すでに礎石を残すだけとなった。
その荒廃ぶりは、『今昔物語』巻二十九第十八の「羅
平安京は、中国唐の都長安を模範として築かれた都城。
中国の都城には、外敵を防ぐ目的から、まわりをぐるりと土塁を羅ねた羅城が築かれたけれど、平安京にはこうした羅城はみられない。
ただ、九条大路に沿って、その外側に高さ二メートル弱の土塁を盛り、両側に二メートルあまりの犬走りと、幅三メートルばかりの溝が築かれていた。
この土塁や溝も外敵の侵入を防ぐという機能ではなく、都城の威厳を示す装置であったようだ。
やがて平安京は、湿潤な環境を嫌っていちはやくその中心軸を左京に移すにつれて、九条大路も国家鎮護の意味を失い、さらに豊臣秀吉のお土居の造築で洛外となるにつれて田園化し、豊富な蔬菜類を産するようになる。
九条葱、九条芹はその代表であった。
大まかに西洞院通あたりを境界に、九条通の西を西九条、東を東九条と大きく分けて呼称される。
東から
東は東大路から西は葛野大路に至る。
全長約 4.1キロ
九条通りのシンボルは、東寺である。
歴史的には、もう一つ羅城門をぬきにはできないだろう。
東寺は正しくは真言宗総本山教王護国寺と称し、平安京造営に際して、北の大極殿へ一直線の朱雀大路を跨いだ羅城門の両翼に建てられた東西二大官寺の一つ。
羅城門の東に位置したから東寺で、左寺、左大寺とも呼ばれた。
九条通りに面して建つ八脚門の南大門を正門に、境内には、今もずらりと堂塔が並んで、ありし日の姿を伝えて威容を誇る。
平安京を睥睨した五十五メートルの五重塔は、正保元年(1644)、豊臣家光が古制に則って再建した塔であり、金堂は慶長十一年(1606)、豊臣秀頼の再建で、入母屋造り、本瓦葺きで奈良大仏殿に倣ったという。
大師堂は、堂内に弘法大師坐像とその念持仏と伝える不動明王坐像などを安置し、それぞれ国宝指定の建造物である。
内部中央壇上に大日如来を中心に五仏をはじめ国宝の五大菩薩坐像などを安置した講堂は、また重要文化財で、収蔵される多くの寺宝も、『東寺百合文書』など国宝、重要文化財に指定されている。
弘仁十四年(823)に弘法大師空海に下賜されて以来、真言密教の寺として一般の信仰を集め、毎月二十一日は、宗祖弘法大師の供養法会が営まれ、広い境内ばかりでなく、寺を取り巻いて植木や古物の露店商による露店市が開かれ、「弘法さん」で親しまれている。
洛陽三十三所観音の第二十三番札所として日ごろのお参りもたえない。
西寺は、天長七年(830)に講堂を完成したものの、五重塔の建築が遅れ、正暦元年(990)二月の大火事で焼失、わずかに残った堂宇も天福元年(1233)に焼けて、のち再建はならなかった。
現在、その跡はとどめない。
平安京の正門として、北の大極殿の朱雀門と相対したのが、
九条大路は、この東寺と羅城門に面して、二つのシンボルと同様に平安京守護の役割をもった大路であった。
平安京造営時の大路小路のなかでも最南端に位置して、南極大路とも呼ばれた。
平安京は、中国唐の都長安を模範として築かれた都城。
中国の都城には、外敵を防ぐ目的から、まわりをぐるりと土塁を羅ねた羅城が築かれたけれど、平安京にはこうした羅城はみられない。
ただ、九条大路に沿って、その外側に高さ二メートル弱の土塁を盛り、両側に二メートルあまりの犬走りと、幅三メートルばかりの溝が築かれていた。
この土塁や溝も外敵の侵入を防ぐという機能ではなく、都城の威厳を示す装置であったようだ。
やがて平安京は、湿潤な環境を嫌っていちはやくその中心軸を左京に移すにつれて、九条大路も国家鎮護の意味を失い、さらに豊臣秀吉のお土居の造築で洛外となるにつれて田園化し、豊富な蔬菜類を産するようになる。
九条葱、九条芹はその代表であった。
大まかに西洞院通あたりを境界に、九条通の西を西九条、東を東九条と大きく分けて呼称される。
平安京の九条大路にあたる。
東は東大路から西は葛野大路に至る。
全長約 4.1キロ
九条通りのシンボルは、東寺である。
歴史的には、もう一つ羅城門をぬきにはできないだろう。
東寺は正しくは真言宗総本山教王護国寺と称し、平安京造営に際して、北の大極殿へ一直線の朱雀大路を跨いだ羅城門の両翼に建てられた東西二大官寺の一つ。
羅城門の東に位置したから東寺で、左寺、左大寺とも呼ばれた。
九条通りに面して建つ八脚門の南大門を正門に、境内には、今もずらりと堂塔が並んで、ありし日の姿を伝えて威容を誇る。
平安京を睥睨した五十五メートルの五重塔は、正保元年(1644)、豊臣家光が古制に則って再建した塔であり、金堂は慶長十一年(1606)、豊臣秀頼の再建で、入母屋造り、本瓦葺きで奈良大仏殿に倣ったという。
大師堂は、堂内に弘法大師坐像とその念持仏と伝える不動明王坐像などを安置し、それぞれ国宝指定の建造物である。
内部中央壇上に大日如来を中心に五仏をはじめ国宝の五大菩薩坐像などを安置した講堂は、また重要文化財で、収蔵される多くの寺宝も、『東寺百合文書』など国宝、重要文化財に指定されている。
弘仁十四年(823)に弘法大師空海に下賜されて以来、真言密教の寺として一般の信仰を集め、毎月二十一日は、宗祖弘法大師の供養法会が営まれ、広い境内ばかりでなく、寺を取り巻いて植木や古物の露店商による露店市が開かれ、「弘法さん」で親しまれている。
洛陽三十三所観音の第二十三番札所として日ごろのお参りもたえない。
西寺は、天長七年(830)に講堂を完成したものの、五重塔の建築が遅れ、正暦元年(990)二月の大火事で焼失、わずかに残った堂宇も天福元年(1233)に焼けて、のち再建はならなかった。
現在、その跡はとどめない。
平安京の正門として、北の大極殿の朱雀門と相対したのが、羅城門。
間口七間、奥行き二間でで二重の楼閣があり、屋根の両端に金色の鴟尾をあげた堂々たる姿で、平安京の南正門の威厳をあらわすのには十分であった。
楼閣には、西戎の侵略を避けたという唐の故事に倣って「兜跋毘沙門天像」を安置した。
この兜跋毘沙門天像は、東寺に現存している。
弘仁七年(816)に大風ではじめて倒壊。
さらに天元三年(980)の大暴風にも倒れた。
以後、再建は思うに任せず、摂関時代の最盛期には、すでに礎石を残すだけとなった。
その荒廃ぶりは、『今昔物語』巻二十九第十八の「羅城門の上の層に登りて死人を見たる盗人の語」などの記述にもある。
芥川龍之介の『羅城門』は、この『今昔物語』の羅城門にモチーフを得た短編小説である。
頼光四天王の一人、渡辺綱の鬼退治のエピソードはよく知られるところである。
現在、千本通上ル東側の公園に「羅城門址」の碑が建てられている。
九条大路は、この東寺と羅城門に面して、二つのシンボルと同様に平安京守護の役割をもった大路であった。
平安京造営時の大路小路のなかでも最南端に位置して、南極大路とも呼ばれた。
平安京は、中国唐の都長安を模範として築かれた都城。
中国の都城には、外敵を防ぐ目的から、まわりをぐるりと土塁を羅ねた羅城が築かれたけれど、平安京にはこうした羅城はみられない。
ただ、九条大路に沿って、その外側に高さ二メートル弱の土塁を盛り、両側に二メートルあまりの犬走りと、幅三メートルばかりの溝が築かれていた。
この土塁や溝も外敵の侵入を防ぐという機能ではなく、都城の威厳を示す装置であったようだ。
やがて平安京は、湿潤な環境を嫌っていちはやくその中心軸を左京に移すにつれて、九条大路も国家鎮護の意味を失い、さらに豊臣秀吉のお土居の造築で洛外となるにつれて田園化し、豊富な蔬菜類を産するようになる。
九条葱、九条芹はその代表であった。
大まかに西洞院通あたりを境界に、九条通の西を西九条、東を東九条と大きく分けて呼称される。
平安京の九条大路にあたる。
東は東大路から西は葛野大路に至る。
全長約 4.1キロ
九条通りのシンボルは、東寺である。金堂は慶長十一年(1606)、豊臣秀頼の再建で、入母屋造り、本瓦葺きで奈良大仏殿に倣ったという。
大師堂は、堂内に弘法大師坐像とその念持仏と伝える不動明王坐像などを安置し、それぞれ国宝指定の建造物である。
内部中央壇上に大日如来を中心に五仏をはじめ国宝の五大菩薩坐像などを安置した講堂
洛陽三十三所観音の第二十三番札所として日ごろのお参りもたえない。
西寺は、天長七年(830)に講堂を完成したものの、五重塔の建築が遅れ、正暦元年(990)二月の大火事で焼失、わずかに残っ
楼閣には、西戎の侵略を避けたという唐の故事に倣って「兜跋毘沙門天像」を安置した。
この兜跋毘沙門天像は、東にもある。
芥川龍之介の『羅城門』は、この
