心の動揺


ウソをつく

私たちはウソをつきます。ウソをつかなければ、生きていけないでしょう。

 「あんたなんか嫌い」とか、「その服、似あわないよ」なんて思うままに言っていたら、社会の中で生きていけません。

 自分自身にウソをつくこともあります。すてきな女性にふられた後で、「ふん、女なんていくらでもいるさ」と自分に言い聞かせたりね(心の防衛規制)。

 適度にウソをつけるというのも、知的レベルの高さと、心の健康の表れです。

すばらしいウソ

 1999年カンヌ映画祭グランプリ「ライフ イズ ビューティフル」

 ユダヤ人捕虜収容所に入れられた主人公は、子どものために命がけでウソをつきます。ここでは、みんなで楽しいゲームをやっているのだと。

 O・ヘンリーの有名な短編「最後の一葉」

 あの最後の葉が落ちたら私は死ぬと言っている人のために、老画家は本ものそっくりの葉の絵を描きます。

 人のためになるウソもあります。

 落語や小説自体、ウソの話ですよね。でも、人に喜ばれるウソ話です。

病的なウソ

 演技性人格障害者や境界性人格障害者は、自分が注目の的になるためには、ウソもつきます。でも、そのウソがばれたときには、ますます惨めになるだけなのですが。

 自分に自信がないとき、地位やお金や家柄や贅沢な持ち物で、自分の心によろいをつけます。そういうものが何にもないときには、しかたがないので、ウソをついて虚勢を張ります。だれでも多少はやるでしょうが、度を過ぎると、不幸の元になりますし、病的な虚言癖にもなってしまいます。

絶対にウソをついてはいけないよ

 厳しすぎるしつけは、親の思いとは正反対に、うそつきを育ててしまいます。厳しいしつけが悪いわけではありませんが、あまりにきびしすぎると、正直にごめんなさいと言うことが怖くなってしまうために、ウソにウソを重ねて、そのうちにいつも責任をはぐらかし、ごまかしてしまうウソつきが出来上がってしまうのです。

ウソを見抜く

 言葉の内容だけではわかりません。口では何だって言えますからね。
「100万円あげます」「あなたを愛しています。結婚しましょう」

ウソは態度に表れます。


多弁になったり、視線が落ち着かなくなったり、自分の身体のあちこちを触ったりします。


そこで、感のいい人は、なんとなくウソだなとわかるのです。
(ただし、男性に比べて、女性はこういう変化は出にくいようです。)

ウソは得になる

 人間は、何らかの形で得になることをするようにできています。自分の得になったり、人の得になる(それが自分の喜びとなる)ような行動をとります(これが心理学で言う「学習」ですね)。


 ウソも、結局は何かの得になるからつくわけです。

 自分が注目されたり、怒られずにすむわけですからね。ただし、短期的に見て得になる場合と、長期的に見て得になる場合があります。


 その場をごまかすだけのウソは、短期的には得になりますが、長期的に見れば損になってしまうでしょう。人のためにのウソ、思いやりからのウソは、長期的に見て得になるウソです。


 2000年1月に起きた女性監禁事件に関連して、警察のウソが問題になりました。政治家や、官僚のウソが問題になることが時々ありますが、彼らは短期的な得を得ようとして、長期的には大損をしてしまったことになります。


 それでも、その組織の中で出世してきた人たちですから、頭の悪い人ではないはずです。その組織や、私たちの社会の中で、ウソをついて自分の失敗をごまかしたほうが得な場合が多かったのではないでしょうか。


 もし、そうだとしたら、彼らにはもちろん責任をとってもらわなければなりませんが、でも彼らを責めるだけでは不十分ではないでしょうか。

 ニュース23に、クリントン大統領が出演した後で、筑紫哲也が言っていました。日本の政治家は、収録ビデオの編集に口を出す人が多いが、クリントンの側近は逆のことを言ってきたそうです。


 仮に大統領に不利なことがあっても、けっしてカットしたりしないでほしいというのです。そんなことが後でバレると、攻撃されるからです。失敗することよりも、失敗を隠してウソをつくほうが責められる社会なのです。

 私たちの社会はどうでしょうか。過ちをごまかし続ける人と、素直に過ちを認め心から悔いてわびる人と、私たちはどちらの人を受け入れるのでしょうか。