FKや卓越した技術で多くの選手のアイドルとなったジーコ。溢れるサッカーへの情熱で再びW杯へと舞い戻ってきた。(Photo:AFLO)

“神様”
ジーコ(Arthur Antunes Coimbra "ZICO")

 「神様」「白いペレ」「マラカナンの英雄」、人々は尊敬の念を込めて男の名をそう呼ぶ。彼の名はアルトゥール・アントゥネス・コインブラ。現代まで脈々と受け継がれる“セレソンの10番”の系譜を生み出したとも言えるひとりの男は、「ジーコ」の愛称で知られる。その足から繰り出される変幻自在な魅惑的なプレーで、また恐るべき決定力を誇る芸術的FKで、ジーコは世界を虜にし続けた。

 13歳でフラメンゴに才能を見初められたジーコだったが、14歳当時で155cm37kgという華奢な身体が明るい未来を曇らせていた。しかし、その後3年間を肉体改造に費やしたことが実り、166cm53kgにまで成長を遂げる。それでもまだ小さいとはいえ、生涯831得点を記録することになる彼の能力からすれば、それで十分だったと言えるのだろう。ひらひらと相手をかわしていくドリブル、強烈なシュート、すべてが計算し尽くされたスルーパス、そして「ゴールを意味する」とも称されたFK。まさに圧倒的なテクニックで、デビューから間もなくして、小さな青年はクラブの下部組織出身者としては初の栄誉を担うことに。のちに自らの代名詞ともなる背番号10を手にし、誰よりもサポーターに愛されながら、ジーコ栄光の日々がここから始まったのだ。

 クラブとともに順調な成長を見せたジーコは、1976年に待望のカナリア色のユニフォームに袖を通すと、78年W杯アルゼンチン大会に出場。しかし結果的に、この大会は失望のなかで終わる。序盤こそ先発を果たすも、徐々に出場時間は減っていき、最後は負傷により大会を終えることとなった。順風満帆に見えたサッカー人生で思わぬ躓きを経験したことが、その後の成長を促したかは定かではない。しかし、この大会を経て、ジーコは勝者としての道を歩み始めた。 80年、フラメンゴでついに初のブラジル王者の勲章を手にすると、翌年にはリベルタドーレスカップを手中に収め、再びブラジル選手権をも制すと、最後はトヨタカップでついに世界一の座に君臨することとなった。トヨタカップで見せた印象的な2本のスルーパスなど、これら数々のタイトル獲得の立役者はジーコ以外には考えられなかった。

 そして迎えた82年W杯スペイン大会。名将テレ・サンターナ率いるブラジルには、ジーコを筆頭に名手たちが織り成す“黄金のカルテット”が鎮座。最高のパートナーを得たジーコは、鋭く曲がって落ちるお手本のようなFKや美しいボレーシュートを披露し、観客が釘付けとなる眩さでピッチを染め上げた。2次リーグ初戦、前回大会に続くアルゼンチンとの対戦では、前半早々に抜け目なく先制ゴールを挙げ、糸を引くようなスルーパスで宿敵に引導を渡す。続くイタリア戦では、試合中にユニフォームを引きちぎられるほどのマンマークに遭いながら、絶妙なスルーパスでアシストを記録。しかし、突如爆発を見せたイタリアのロッシの前に、ジーコを中心とした大会最高のチームによる夢物語はここで終わりをみせたのだった。

 W杯後、イタリアのウディネーゼという小クラブで欧州に挑戦したジーコは、デビュー戦から2戦連続で2ゴール、両試合ともにFKを沈めるなど、前評判に違わぬ能力でサポーターを驚かせてもみせた。なお、イタリアでゴールを量産したFKはこのとき芸術の域に達しており、ボールがネットに吸い込まれたときには相手チームのサポーターからも歓声が上がったほどである。

 その後、復帰を果たしたフラメンゴで相手選手の汚いタックルを浴び、ひざに重傷を負ったジーコ。早期復帰の影響で再手術を迫られながらも、4年前の雪辱を果たすべく強行出場した86年W杯メキシコ大会だったが、またしても勝利の女神はブラジルに微笑まなかった。ケガもあり、出場機会が限られるなかで大会は進んだが、ジーコは準々決勝フランス戦で改めてその才能を証明する。途中出場から1分も経たないうちに、息を呑むスルーパスでPK獲得を演出したのだ。このPKはジーコ自身が外してしまうが、ここまでの鬱憤を晴らすかの如くその後も奮闘したジーコは、PK戦までもつれ込んだ試合で今度は冷静にPKを沈める意地を見せた。結局ブラジルはここで敗れ、3大会に渡ってジーコがW杯のファイナルを経験することは一度もなかったが、この檜舞台で繰り出されたジーコのプレーの数々は観衆の記憶に今も焼き付いていることだろう。

 フラメンゴで引退を表明したのち、ジーコはここ日本で電撃的な現役復帰。当時2部リーグの住友金属(現鹿島)を強豪チームに変貌させ、Jリーグ初のハットトリックや自身生涯最高のゴールと称えるヒールボレーなどで、Jリーグの黎明期を支えた。そして、2002年からは日本への恩返しとして代表監督に就任。04年アジアカップ制覇や世界最速のW杯出場権獲得など、その先の活躍は周知の通りである。今夏迎える06年W杯ドイツ大会、ジーコの夢物語の続きが、再び始まる。
生年月日 1953年3月3日生まれ
W杯データ 通算記録:14試合出場5得点
初出場:1978年アルゼンチン大会1次リーグ・スウェーデン戦
初得点:1978年アルゼンチン大会2次リーグ・ペルー戦
大会別記録 1978年アルゼンチン大会:6試合1得点(3位)
1982年スペイン大会:5試合4得点(2次リーグ敗退)
1986年メキシコ大会:3試合0得点(ベスト8)