観心寺の歴史



   草 創
 河内地方最大の古刹、檜尾山観心寺の創建は、奈良時代前期にまでさかのぼる。文武天皇の大宝年間(701~704)、役小角によって草創された『雲心寺』がそれである。役小角は役行者、役優婆塞とも呼ばれる。呪術に通じ、仏教に帰依していたといわれ、大峰山などで知られる修験道の開祖として著名である。大峰山、金峰山、箕面山、葛城山(現在の金剛山)などの山野で修行したと伝えられるが、特に葛城山系は主たる活動の地として開基した寺院も多く所在している。
 「雲心寺」の名は、承和四年(837)の『観心寺縁起實録帳』に、「改雲心寺号観心寺」とみえるのみで、規模、内容など全く不明である。おそらくは、役小角によって葛城山系に設けられた修行場の一つと考えられる。現在寺に伝えられる四体の金銅仏(観音三、釈迦一)は、奈良時代前期(白鳳期)の作とされ、この頃の遺品とされている。




   開 基
 寺伝によれば、弘法大師空海が大同三年(808)、当地巡錫の際、北斗七星を勧請し、弘仁六年(815)に再度この地を訪れ、国家安康・衆生除厄祈願のために如意輪観世音菩薩(七星如意輪観世音菩薩)を刻み本尊とし、寺号を「観心寺」と改めたという。
 『檜尾蔵記』に引く「遊方記」に、「天長四年是實恵立河内観心寺、實恵、當寺者、先師経行之砌、北斗降臨之壇也…。」とあり、寺伝と符号する。
 観心寺の本格的な伽藍造営は、実恵とその弟子真紹によって行われた。元慶七年(883)の『観心寺勘録縁起資財帳』には、寺領、伽藍堂舎の詳細のみならず、造営に至った事情の記載がある。
 それによると観心寺は、天長二年丙午(ただし丙午の年は天長三年となり、正しくは乙巳としなければならない)、故少僧都真紹和尚がこの地に移住して十数年かけて建立した道場で観心寺と号するとある。また貞観十一年(869)五月廿七日の符(公式文書)によると、「実恵が国家のために建立を発願し、真紹が実行したのが観心寺であり、その後も法灯ずよく護持されている。従ってかねてより申請のあった定額寺とし、別当には河内国守をあてることとする。守不在の場合は介が代行する。」以上が概略である。定額寺とは延暦二年(783)以降朝廷が定めた官寺であり、官稲などが給される。観心寺はこの決定により密教の一寺院にして官寺にもなったわけである。
 実恵を開基とする資料は、『権少僧都真紹付属状』に「観心寺本是山野、而先師従天長四年起首切除夷坥、所建立也」とあり、年号が天長四年とするほかは先の資料と同じである。従って天長二~四年(825~827)の頃、真紹がこの地に居住しながら実恵の意をうけ、十数年かけて建立したのが観心寺であるということになる。




   平安時代の観心寺
 実恵、真紹によって建てられた伽藍は、定額寺となっていよいよ隆盛をきわめる。現在、この頃の状態を伝える伽藍堂舎はほとんどないが、『観心寺勘録縁起資財帳』でその全容を知ることができ、縁起、堂舎、収納仏具、寺領荘園にいたるまでの細かな記述がある。講堂は現在の金堂と考えられているが、この時代のものではない。また、現在の金堂と建掛塔の間に大きな谷があるが、ここから久安年間(1145~1151)の瓦が出土している。全ての建物は桧皮、及び萱葺きであり、瓦葺きのものはみられない。創建期の伽藍と現在のそれとでは、地形、形態などに大きな違いがあるようである。
 寺領荘園は、地元の河内国錦部郡のほか、石川郡、古市郡(現在の大阪府南東部)、紀伊国伊都郡、那賀郡(現在の和歌山県北東部)、但馬国養父郡(現在の兵庫県北東部)に及んでいる。
 『三代実録』に禅林寺に安置された仏像が斉衡元年(854)、河内国観心寺、すなわち観心寺で製作されていることが記されている。
 現在観心寺には檜材で造られた仏像が多数残されており、そのほとんどが文化財の指定をうけている。東寺の仏像群との近似も説かれており、禅林寺と共に実恵、真紹とかかわりが深く、これら寺院の仏像を檜材に富む河内の地で製作したことは十分考えられる。いわば観心寺が造仏所を設備していたと想起されるのである。ちなみに山号を檜尾山と号するのも、これらの事実と因縁浅からぬものがあるようである。
 この時代の他の記録として、承和七年(840)の梵鐘の鋳造、貞観十六年(874)御願堂修理料として壺井里一町五段の施入、天承二年(1132)四月に鳥羽院祈願所となったことなどが残っている。



   中世の観心寺
 源頼朝以来の慣例を明文化したといわれる我国初の武家法『関東御成敗式目』(貞永式目)の第二条に、「一、可[下]修造[二]寺塔[一]勤行[中]佛事等[上]事、右寺社雖ルト崇敬是同ジ、仍修造之功恆例之勤、宜ジ[二]先條ニ[一]レ[レ]招ク後勘ヲ[一](以下略 [ ]返り点)」とあるように、武家社会になっても、仏教、寺院に対する基本的な姿勢に変化はなかった。この時代の観心寺に関する資料は、建久元年(1190)十日十日付の頼朝からの寺領安堵の書状が残っているくらいで極めて少ない。わずかに境内出土の考古資料から、この時代に瓦葺き建築が本格化したことや、貞永二年(1233)二月に金堂前に鉄灯籠が寄進されたことが遣存例から知られる程度である。
 時代は建武新政へ至る元弘元年(1331)の後醍醐天皇の蜂起、楠木正成の挙兵は河内の地、とりわけ観心寺を政治の荒波の中に巻きこんでいった。元弘三年(1333)の後醍醐天皇は綸旨を発している。
 「河内団観心寺地頭職、所被付寺家也、可存其旨者、天気如比、悉之以状
 元弘三年六月廿九日式部(岡崎範国)少輔[花押]
 観心寺僧中」
 この綸旨によって観心寺地頭職は寺家に付される。同年十月十五日、天皇は弘法大師作と伝える観心寺不動明王像を宮中に遷座するように綸旨を下す。この件に関してはいくつかの書状が残されているが、そのなかでも楠木正成が滝覚坊にあてたものは興味深い。それには次のようにしたためられている。
「此之問何等事候乎、抑為御祈祷、観心寺大師作不動可奉渡之由、被下 綸旨候之間、申遺寺僧方候、明後日廿八日御京着候之様、可被奉候也、御共二御上洛候へく候、心事期面候、恐々謹言
  十月廿六日         (楠木)正成[花押]
 滝覚御房」
内容は綸旨の趣旨を寺僧に送り伝えたことを述べ、明後日の十月廿八日に不動明王が京都に到着するよう配慮を依頼し、滝覚坊自身が不動明王とともに上洛することを勧めている。最後には正成が面談の機会を得たいと結んでいる。滝覚坊は正成が八歳から十五歳まで観心寺中院で学問に励んだ時の師であり、文中には正成の人となりを示す細やかな気遣いと風格がみられる。『檜尾蔵記』に「一伝外陣正成朝臣奉行ニソ 而建立也云々」とあり、従来五間四方であった講堂(現金堂)の外陣造営を、正成が奉行したともいわれている。
 延元元年(1336)後醍醐天皇は吉野へ遷られた。以来、元中九年(1392)十月五日、後亀山天皇が後小松天皇に神器を渡し、南北朝の合一となるまでの間を南北朝時代と呼んでいる。この時代の観心寺には様々な出来事が起き、その記録も多く残っている。延元元年(1336)五月二十五日には楠木正成が湊川で戦死、延元四年(1339)八月十五日後村上天皇即位、同年八月十六日には、後醍醐天皇が吉野で崩御と、観心寺を取り巻く情勢は目まぐるしくかわってゆく。
 興国五年(1344)には鎮守社(訶梨帝母天堂)を焼失するが、神体は焼失をまぬがれる。この件に関し同年五月二十六日、楠木正行が後村上天皇に奏聞し、六月三日鏡守社復興を命ずる綸旨が出されている。
 楠木正行自筆の書状に
「頓作御造畢、無為御遷宮、返々目出度喜入候、必々可参詣候、恐々謹言
  十二月一日             (楠木)正行[花押]」
とあり、鎮守社の復興は十二月には完成したようである。
 正平三年(1348)一月五日、楠木正行四条畷にて戦死。後村上天皇、吉野賀名生行宮に遷る。同年八月北畠親房尾張国長岡庄地頭職を興隆料所として寄進、翌年には後村上天皇が綸旨を発し、尾張国今村地頭職を領職のかわりとして観心寺に知行されている。正平十四年(1359)には、後村上天皇が天野山金剛寺
から観心寺へ遷り、翌年五月大和宇智郡北山に移られるまでの間を過ごされた。正平二十三年(1368)三月十一日、天皇四十一歳で崩御、同年観心寺に葬られる。
 天皇崩御から約十年後の永和四年(1378)四月十二日、僧賢耀という人物が観心寺に参詣している。この際各伽藍堂舎の様子を詳しく観察し『観心寺参詣諸堂巡礼記』という書物を残している。寺に直接関係のない人物の記録として注目される。
 弘和三年(1383)には長慶天皇が綸旨を発している。
「当寺七ヶ村預所職、所被付寺家也、早可令全管領者、天気如此、悉之以状
  弘和三年十二月九日 左権中将[花押]
 観心寺々憎等中」
この綸旨は後に頻繁に文書に登場してくる、いわゆる七郷支配のはじまりと考えられている。七郷とは、鳩原、太井、小深、石見川、上岩瀬、鬼住の七ヵ村を示しており、『観心寺七郷納帳』の記載では、総石高数は九十三石二斗六合二夕にのぼる。
 中世末期、室町時代後半の観心寺は南朝時代の情勢と大きく異なり、漸次衰退の兆しをみる。この時代の状況は、十二巻の巻子本に装丁された畠山文書(重要文化財)によって知ることができる。
 応永十四年(1407)六月五日の室町幕府将軍家御教書には次のようにある。
「河内国観心寺雑掌申観心寺七卿地頭領家両職半分事、早任近年、知行之例、河被沙汰当寺之由、所被仰下也、仍執達如件
 応永十四年六月五日       (斯波義重)沙弥[花押]
  畠山修理(満則) 大夫入道殿」
これによると、七郷地頭領家両職の半分の安堵が認められている。畠山満家は応永十六年(1409)三月三十日、祈祷料として大和国宇智郡須恵庄を寄進、応永二十四年(1417)八月五日には段銭以下臨時課役および検断書を免除する旨の状を観心寺に送っている。この後も畠山持国、義就らの寄進の他、いくつかの寄進状をみることができるが、かつての盛時には到底及ばないものであったと考えられる。
 南北朝時代に戦乱の渦中にあった河内の地は、この時期、畠山氏の内紛に端を発した抗争で再び戦乱の地となった。
 畠山家系図では最もあとにくる畠山昭高は兄高政を追放して家中の実権を握った遊佐信教と対立し、天正元年(1573)信教に殺された。弟昭高の仇をとるべく高政は挙兵したが敗北し、天正四年(1576)失意の内に没した。観心寺には、政国、高政の五輪塔が建てられている。
 畠山氏の没落、織田信長の登場は、観心寺にとって大きな打撃となった。『檜尾蔵記』によると、観心寺の七郷支配は天正八年(1580)をもって終わりを告げている。信長の跡を継いだ豊臣秀吉は文禄三年(1594)、観心寺村を検地のうえ二十五石を寺に寄附した。その朱印状は次のとおりである。
「河内国錦部勧進寺村弐拾五石事、今度以検地之上、改令寄付付畢、全可寺納候也
 文禄十二月二日
        勧進寺(朱印)
 この時期、文禄四年(1595)と慶長十八年(1613)の二回にわたり、持明院正遍と豊臣秀頼によって金堂の修理がおこなわれている。



   近世以降の観心寺
 元和三年(1617)九月七日、徳川二代将軍秀忠が観心寺村内二十五石の朱印状を寺に出している。これ以降、家光、家綱、綱吉と代々の将軍から朱印状が寺に出されている。
 寛永十年(1633)八月十日、洪水によって、金堂、塔、坊舎など多数が破損、翌十一年(1634)将軍家光の上洛の際、観心寺惣中が伽藍の造営を奉行衆に願いでている。
 正保三年(1646)御影堂再建になり、万治二年(1659)阿弥陀堂建立、同年八月には西南両大門が近江膳所藩主・本多俊次により再建されている。寛文五年(1665)九月十日には金堂修理完成、元禄十二年(1699)には行者堂が再建されている。こうした目覚ましい復興の背景には、寺僧の努力はいうまでもなく、塔頭中院の壇家に旗本甲斐庄がいたことが注目されてよいだろう。
 この時期の人物でもう一人注目されるのが観心寺法印であった堯恵である。延宝六年(1678)、河内国石川郡山中田村に生れた堯恵は、観心寺不動院法眼良尊のもとで修行に励んだという。享保十一年(1726)五月に四十九歳で僧都、同十七年(1732)九日、五十五歳で観心寺僧綱の最上位である法印に昇進した。同十九年(1734)には、弘法大師九百年忌大曼茶羅供、延享三年(1746)には実恵僧正九百年忌の導師をそれぞれつとめている。また法灯護持と寺務運営に厳しい態度で臨んだことが知られている。たとえば、開帳に際して境内で芝居が行われたり、寺の周囲に魚屋などが出店するのを厳しく戒めている(「開帳要用大略記」)。さらに、観心寺の歴史と伝統を再確認し、後世に伝えるべく幾つかの著述を残している。『檜尾蔵記』四巻四冊、『檜尾山年中課役双紙』五巻五冊をはじめ、『金堂修理萬記』、『一院建立萬記』、元禄八年及び十四年(1695-1701)の記録など、いずれも深い学識と謹厳な筆体で書かれており貴重である。また安永三年(1774)には開基の実恵僧都に対し、後桃園天皇から道興大師号が贈られた。
 明治維新前夜の文久三年(1863)八月、中山忠光を総裁とする天誅組は大和五條に打ち入る前の十七日、楠木正成の墓前に詣でている。明治四年(1871)寺領上地、同十九年(1886)内務省より保有金五百円下附、同三十一年(1898)金堂修理がおこなわれる。大正六年(1917)には、東大史料編纂掛所から『大日本古文書』家わけ第六として観心寺文書が出版され、『檜尾蔵記』以来、初めて代表的文書が公刊された。昭和四年(1929)には金堂尾根瓦葺き替えが行われた。昭和五十九年(1984)十一月、金堂昭和大修理落慶をみる。