太子講と鎌倉木遣り
萩寺として有名な鎌倉の宝戒寺が執権北條家の屋敷跡だということを知る人は少ない。もちろん、1月22
日の午後1時から「太子講」と呼ばれる職人たちの集まりがあることなどを知るチャンスもなかった。鎌倉警
察署の先の裏通りを歩いていく。宇津宮辻幕府跡と書かれた場所には小さく赤い鳥居があって稲荷が祀ら
れている。風にたなびく旗指物には県会議員の名前などが記されていて、古都鎌倉の保守的な地盤をよく
表わしている。腹切りやぐらの入口近くを行くと、北に向かって大勢の半纏を着た人が歩いている。
私の手帳には「午後1時、宝戒寺、太子講」としか書いてない。午前中の仕事が一段落した妻も一緒に
でかけることになった。大寒の午後は人通りも閑散としているが、宝戒寺の境内は提灯が飾られていつもと
違った気配である。本堂の右手にいつもは気にならない建物があって、そこが聖徳太子を祀った「太子堂」
である。数ヶ所に篝火が焚かれて丸い椅子が並べられている。印半纏をまとった男たちが煙草を吸ったり、
携帯電話で誰かと話したりしている。鐘が鳴り僧侶たちの一団が進んでくる。午後1時である。
いつの間にか印半纏の職人たちはキチンと整列している。インターネットで「太子講」を調べると「聖徳太子
は優れた工芸・技能者の育成をはかりました。従って職人は太子を守護神とし昔から信仰しています。この
日は護摩を焚き、読経し法要を営みます。市内の建築関係の人、植木・石屋等の職を持つ人多数が参加
し、木遣り唄などを奉納します」とある。篝火を焚いている人に尋ねると「宮大工たちが集まって、聖徳太子
をお祭りしたのが最初でしょう」という説明である。「最後に木遣りをやります」とも言われる。
寒さに震えながら護摩を焚いて読経を続ける僧侶の後ろ姿と太鼓を叩くさまを見ているだけでは面白く
な
い。本堂に上がりご本尊におまいりをする。「お帽子はお取りください」と後から声がかかる。さすがに格式
の高いお寺だけある。白い梅がようやく咲き始めた。しだれ梅の蕾も膨らみ始めたようだ。「今年は寒いです
から見頃は2月中旬でしょう」と受付の寺僧が応える。とび職組合が建てた慰霊塔のそばに福寿草が黄色
い花を可憐につけている。スイセンは満開を過ぎたようだ。
宝戒寺は天台宗のお寺で後醍醐天皇の命により足利尊氏が建立したものだという。北條義時が小町
邸を
造って以来北條執権の屋敷となった。天文七年(1538年)に七堂伽藍ことごとく消失したが、天海大僧正
の懇願によって徳川家康の息のかかったお寺に生まれ変わったようだ。天龍山釈満院円頓宝戒寺縁起に
よると「開基は後醍醐天皇で」と誇らしげに書かれている。本堂には本尊の子育経読地蔵大菩薩の他に閻
魔大王や毘沙門天が祭られている。本堂の周りには大聖歓喜天堂、聖徳太子堂、徳崇大権現堂がある。
秋には境内一円に白萩が咲き誇る宝戒寺であるが、冬には108種の椿が咲き、水仙、白曼珠沙華な
ど季節折々に楽しめる。護摩と読経の声は境内一円にこだまし、太子堂から煙が立ち昇る。次々にお参りした
建築関係者たちは、今年も鎌倉の内外で活躍するような面魂である。大きく太鼓の音がすると緋の衣の僧
侶が出てきてとび職たちに促す。エーイと声がかかって「木遣り」の合唱が始まった。何をうたっているのか
わからないが、山で木を切り出すときに歌うような神聖な雰囲気があたりに漂っている。
聖徳宗の総本山である法隆寺には、金堂や五重塔をはじめ現存する木造建築では世界最古といわれる
建造物がいらかを並べています。
イカルという鳥の名に由来を持つ斑鳩(いかるが)の地に法隆寺が建立されたのは607年(推古十五年)
のことで、推古天皇と聖徳太子が用明天皇の病を治すために、薬師像を祀る斑鳩寺(現法隆寺)の建築
を進めたことが始まりとされています。しかし用明天皇のために創建された最初の法隆寺は、創建から64
年後の670年(天智天皇9年)に火災で焼失したと日本書紀に記されていおり、現在の法隆寺は672年から
689年にかけて再建を始めたものとされています。
そして今日、1400年の年月を経て18万7千平方メートルもの広大な敷地内には、19棟の国宝建築物を
はじめ、建立以来人々をひきつけてきた幾つもの文化財が存在し、文化史上重要な寺院であることから
1993年12月に世界文化遺産に指定されました。
