◆英霊へ深甚の配慮あつて然るべし◆


 八月十五日を前に靖國参拝に関し、「今年はもう正月に参拝したから、行く予定はない」と一国の総理がみづから言明するなんぞ、どだい情けない仕業ではないか。
 さう遠くない過去、政府が終戦記念日を「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」と決めたのである。聡明を気取る首相にして、よもや元旦と日本民族慟哭の日の決定的相違に気づかぬはずはあるまい。
 そもそも心ある国民の不評を買つた前倒し参拝よりこの方、年々後退を余儀なくされて本年の初詣に至つた所以のものは、教科書検定基準に所謂「近隣諸国条項」があると同様、靖國における「近隣諸国への外交上の配慮」なる足枷による。昭和六十年の中曾根の一大蹉跌以来、橋本の盲動を含む歴代首相の不遜すべて、かかつて愚にもつかぬ右「配慮」が生ぜしめたものである。小泉の不本意であらう退却にも、正しく同じ理由が禍ひした。
 しからばその「配慮」たるや、果して美談と称するに価するか。否、まつたく逆。「近隣諸国条項」が近代史を改竄せしめて父祖の営為を貶めたと軌を一にし、靖國をめぐる「配慮」もまた不参拝の積み重ねを通じて英霊の神格を汚したのみならず、尋常ならざる北京の没義道を正当化するに寄与しつつある。まことに、唾棄すべき代物以外の何ものでもなからう。
 有志閣僚の八月十五日参拝は是として首相のみの期日変更が「外交上の配慮」とは甚だ奇怪なる論理ながら、いかなる日を選んで靖國に詣でようとも、北京の対日攻勢にかいもく揺るぎは見られない。炯眼をもてこの絡繰りを見抜き、「ここは日本である!」との大信念のもと、英霊に対する深甚の「配慮」あつてしかるべきである!
                    (平成16年8月)


       ◆道鏡に匹敵する中曾根康弘の妄動◆

「戦犯の存在は認めないが、日中間の外交懸案打開政策として妥協し、A級被告を分祀すれば友好関係に貢献する」――靖國神社本来の祭祀の在りやうに容喙して恥なき中曾根康弘の前後一貫した理屈である。
 A級被告分祀論の投げかけるものは、ほかでもない、「靖國祭祀」「日中友好」いづれを重しとするかの二者択一。明治天皇の思召しによつて御創建をみた靖國神社の来歴に鑑みるところ、それは取りも直さず「日本か中共か」「愛国か売国か」の踏絵を踏むに等しい。祖国を足蹴にして得意満面の中曾根輩を、もはや良心の一片のかけらすらなき国賊と表現する以外に凱切なる言葉を知らぬ。過去の一時期ながら、かかる不逞きはまる宰相を有した祖国を思うて悲憤を禁じえない。
 その国賊の邪説をよく一蹴した三月三日付の「所謂A級戦犯分祀案に対する靖國神社見解」(裏面に全文)に曰く、「所謂A級戦犯の方々の神霊の合祀は、昭和二十八年五月の第十六回国会決議により、すべての戦犯の方々が赦免されたことに基づきなされた」と。北京の他愛なき一挙手一投足に戦々兢々たる台閣の連中、もって自信と謙虚とを速やかに取り戻すべきであらう。
 だが既にして四月、首相小泉ならびに冬柴鉄三、野田毅らと会談した山崎拓が、「A級戦犯分祀の方向で検討することで出席した四人が一致した」と公言したごとく、中曾根乱心の煽りを受けた永田町を邪説が席捲しつつある。靖國神社が憂慮すべき深刻なる事態下にあることを、このさい改めて胆に銘じねばなるまい。
 先の靖國神社文書は、分霊と分祀の別に言及し、「分祀はあり得ない」と断言した。伝統的神霊観念に挑戦せんとする分祀亡者どもの策動は、実に天を仰いで唾する類の、かの道鏡同然の蛮行である。
 史上、この種救ひがたき破廉恥漢が神罰を避け得たとは、寡聞にしてつゆ耳にしない。神を恐れぬ不義邪道は、確度も高く裁かれようぞ!(平成16年8月)


          ◆人質事件の教訓◆

 イラクでの2件の邦人人質事件。
 外務省の渡航延期勧告を無視してイラクに入り、無理やり攫はれたのは、まづ致し方ない。自己責任云云は措くとして、自国民をあらゆる手段方法を駆使して救出せんとするのが国家といふものである。
 今回、政府はあたかも北朝鮮による拉致事件で手を拱いてきた不肖の穴埋め然と立ち働いたやに見受けられる。身代金が支払はれたか否かは不明だが、ともかく人質は生きてまた故国の土を踏んだ。
 事件渦中、人質家族の不遜きはまる態度もさりながら、その背後にゐて、あるいは彼らを利用して政治宣伝に余念なかつた輩たち。その蠢動たるやまことに醜くあつた。犯人グループの要求通り自衛隊撤収こそ解決の道と説いた連中の理屈に、大多数の国民は驚きと怒りを感じたに違ひない。テレビキャスターのしらじらしい言辞に辟易させられた視聴者も多からう。ドタバタの悲喜劇にいつたん収束を見たわけだが、向後同様の事件が続発する可能性なしとしない。
 それにしても、人権優先と称して自衛隊を引く事態に直面しなかつた、つまり武装集団の政治目的を国家レベルで遂げしめなかつた点、遅遅であれいかほどか日本人は成長しつつあるのだらうか。過去の日本赤軍による旅客機乗つ取り事件処理が苦苦しくよみがへる。
 そもそも国際場裡における国家政策、このたびは自衛体派遣、それと人権擁護なるものとはおのづから一線を劃す。むしろわが国の主権の及ばぬ異国であらうとも、独立国家の面目上も同胞人質の人権恢復のために奔走すべきが国家の責務といつていい。さうしてげんに事実化した。
 日本人の成長に言及したが、さほどでもないのは靖國神社や教科書問題に見てしかり。国家主権と、人権ならぬ友好との重さが政界人士の間で転倒してゐるではないか。人質事件落着に手放しの安堵の禁物であるのが、祖国の現実なのである。(平成16年5月)

       ◆靖国訴訟福岡地裁判決の異常◆
 
 靖國神社への平成13年8月13日首相参拝を、信教の自由を侵害し精神的苦痛を強ひる違憲行為だとして真宗僧侶やキリスト教徒らが損害賠償を求めた訴訟、その福岡地裁による4月7日の判決文中「傍論」は、まさに政治的意図丸出しである。
 「主文」において、首相の参拝は賠償の対象となりうるごとき法的利益の侵害もなかつたと請求すべてを棄却しておきながら、わざわざ付した「傍論」では、参拝は職務遂行といふ公的性格を帯び、社会通念に従つて判断すると憲法が禁止する宗教活動にあたる、と断じた。
 社会通念云云は当然、昭和52年の津地鎮祭最高裁判決にみえる「目的効果基準」を表向き尊重するかに装ふ。
 すなはち憲法の定める政教分離に関し、国家が関与する「目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるやうな行為」は禁止されるが、津市が市立体育館建築着工にさいし地鎮祭を主催し、公金を支出したのは「慣習化した社会儀礼」「世俗的な行事」の範囲内であつて宗教的活動にはあたらない、との判例に照らしても、なほ違憲とした。
 かくて、原告は敗訴しながら「実質勝訴」と欣喜して控訴せず、被告たる首相や国は争点で勝訴したゆゑに控訴できず判決が確定、結果として首相参拝の違憲が認定されてしまつた。「傍論」といふ「裁判長の独り言」、それもきはめて偏頗な政治的私見の独歩は、正しく司法の危機的状況を晒してあまりある。
 首相の参拝が「政教分離規定に違反」してゐるか否かの係争は比較的近時のことながら、憲法上の政教分離とは本来「国家と宗教団体の分離」であり、「国家と宗教の分離」の謂ひではない。わが国柄に鑑みれば、神式仏式を問はず、国が宗教儀式に関連する場面は必然性を伴うて多い。内閣総理大臣の、戦歿者を慰霊し遺族を慰謝する確たる靖國参拝が望まれるゆゑんである。(平成16年4月)

       ◆自衛隊イラク派遣は天来の機縁◆

 イラク復興支援での自衛隊派遣をめぐり、米国の方針に唯唯摩り寄らんばかりの政策を咎める声あるのは知つてゐる。派遣隊員の万全なる安全確保策の議論もそこそこに送り出した事実も知つてゐる。
 武力行使と武器使用を混同して何ら痛痒を感ぜぬ人士のきはめて多いのもまた知つてゐる。自衛隊を否定しながら危険地域へ投ずるのを人情論をもつて非難する連中がゐるのも知つてゐる。政策論議と任務完遂無事帰還を祈ることとを峻別する人びともゐる、これまた知つてゐる。
 かく知つてあへていふ。自衛隊イラク投入は、過去のPKO派遣と同様、日本の将来のために無上の好機である。
 自衛隊、その前身は占領下に発足、世の白眼視の時代を乗り越えてやうやく今日に至つた。新たなる冷戦情況が熱戦と紙一重のいま、祖国防衛軍でありながらも日米条約下にあつて永く後方任務に押し込められてきた歪みを脱し、向後否応なく国際情勢、ことに波高き東アジアを睨んだ防衛活動に正面から主体的に取り組まねばならぬ。起りうるあらゆる事態を想定すれば、片務条約も自衛隊の士気を台無しにするが、列島での籠城は作戦上も後手に等しい。
 恃むはわが独自の戦略と力。実戦といふではないが、よりそれに近い体験を積むのは自衛隊に実地における危機対処法を会得させ、その緊張感は全隊へ波及する。国民も相応の覚悟を要求されるであらう。
 かかる自衛隊派遣による複合的影響要素を勘案するとき、いたづらに日本国および自衛隊を米国の属国視し傭兵視して派遣反対を叫ぶは愚、世界の機を呑みつつ真の祖国防衛力を充実させる方途に敏ならざる者の仕業といふしかない。
 精神上にも軍事上にもゆくゆく米国旧来の覊絆を脱し、併せてわが国に含むところある諸外国への牽制のためにも派遣は天来の機縁。但し、わが政府の能力心底、米国の思惑とは次元全然別なりと云爾。
(平成16年2月)

         ◆為政の不作為を弾劾する◆
 
 韓国の竹島切手発行、その国立公園化策動、あるいは北朝鮮による拉致事件の解決へ向けた主導権、中国の尖閣攻略企図や打ちつづく近海調査、海南島の東條英機像その他につき、わが国が国としてそれなりの効果ある処置を採りつづけてゐるとは当然認めがたい。むしろすべてに後退とおぼしき対応ばかりが目立つ。
 何となれば、一にかかつて当局者が仁王立ちのごとき、この国土にしつかと足を踏ん張つて立つ気力に欠けてゐるからである。欠けるにあらず、初めより持ち合せてゐない。
 過去、薬害をめぐつて不作為の罪に問はれ有罪判決を受けた者がある。ハンセン病国賠訴訟でも熊本地裁は国と国会の不作為の責任を認定した。
 不作為罪は、結果を防止すべき重要な法益に関する高度なる危険が存在し、結果防止が可能であり、かつその者が結果発生を防止せねばならぬ立場にあつたこと、が成立要件。これらを満たせば、危険を積極的に生ぜしめる作為犯と差異はない。
 刻下、行政・立法府の深刻きはまる不作為をしも単に「政治判断」として看過するなら、ただに神聖なるべき領土を銃器の蹂躙にまかせ同胞を遠く白頭山下に嘆かしめるのみならず、またその不作為の果て斯ばかり国民を悄然憤然たらしめる国益の損耗を挽回する手立て、いつたいいづくに求めよといふのか。かくて一国の正義は疾くに地を払つたも同然。信なくんば民立たず、為政の要諦を無視しては祖国融解の度、いよいよ顕著となること必定である。
 政治年来の不作為の大罪ここに明らかであるところへ、自衛隊イラク派遣にさいし武器使用基準ほか、安全に関する十全の事前法整備を怠る失態をも演じた。これでは恰も遭難者出でよと勧奨するに等しく、実際さやうな事態の出来にあたつての対策も欠落して憤ろしい。
 ここは日本である。日本といふ根幹に拠る姿勢を確立するこそ政治の初歩となさねばならぬ。(平成16年1