sky&sea 境野 ひろみ
http://ameblo.jp/blog1206/entry-10003582837.html
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静御前と神泉苑 ①神泉苑と雨乞い 神泉苑は弘法大師空海が天長元年に雨乞いを修されて以来、天皇
の行幸される遊宴の場としての存在から、祈雨の霊場としても認識されるようになった。 これ以後、多くの
真言僧によって祈雨の修法がなされた。 ②小町と雨乞い 平安時代のある年、日照りが続き朝廷も祈祷な
どに手を尽くしたが験が見えず、この上は和歌の徳をもって龍神を感応させ奉る外あるまいということになっ
た。 そして詠者として当時第一の歌人として小町が召されて、神泉苑で雨乞いの歌を奉納することが命ぜ
られた。祈雨の壇に登った小町は次の歌を詠んで奉納した。ことはりや ひのもとならば てりもせめ
さりとてはまた あまかしたとは通釈 理屈から言ってこの国が『日の本』だから日照りになっ
ても仕方ない。しかし、世界を『天が下』とも言うのだから雨を降らせてくれないだろうか。 ③静御前と雨乞い
静御前は雨乞いの舞を神泉苑で舞ったと伝えられる。静御前と言えば「義経」とのロマンスが有名です。
「義経記」は静御前の雨乞いの様子を次のように伝えます。一年百日の旱の候ひけるに、賀茂川・桂川皆
瀬切れて流れず、筒井の水も絶えて、國土の事にて候ひけるに、次第久しき例文を引いて『比叡の山・三井
寺・東大寺・興福寺などの有験の高僧貴僧百人、神泉苑の池にて仁王経を講じ奉らば、八大龍王も知見納
受垂れ給ふべし』と申しければ、百人の高僧貴僧を請じ、仁王経を講ぜられしかども、其験もなかりけり。
(本中が日照りとなって人々が苦しんだ時に(一説では寿永元年(1182年)7月)、慣例によって高僧が神
泉苑に招かれて経を読んで雨を祈ったが効験がなかった) 又或人申しけるは、『容顔美麗なる白拍子を
百人召して、院御幸なりて、神泉苑の池にて舞はせられば、龍神納受し給はん』と言へば、さらばとて御幸
ありて、百人の白拍子を召して舞はせられしに、九十九人舞ひたりしに、其験もなかりけり。 (みめ麗しい白
拍子を神泉苑に百人集めて後白河法皇の行幸を仰ぎ、九十九人が舞って雨を祈ったが効験はなかった)
『静一人舞ひたりとても、龍神知見あるべきか。而も内侍所に召されて、祿重き者にて候に』と申したりけれ
ども、『とても人数なれば、唯舞はせよ』と仰せ下されければ、静が舞ひたりけるに、 (あと一人が舞うくらい
で効験があるだろうかという意見もあったが静御前に舞わせてみた) しんむしやうの曲と云ふ白拍子を、
半ばかり舞ひたりしに、みこしの嶽、愛宕山の方より、黒雲俄に出で来て、洛中にかかると見えければ、八
大龍王鳴り渡りて、稲妻ひかめきしに、諸人目を驚かし、三日の洪水を出し、國土安穏なりしかば、さてこそ
静が舞に知見ありけるとて、『日本一』と宣旨を賜はりけると承り候ひし」と申しければ、鎌倉殿是を聞召し
て、「さては一番見たし」とぞ仰せられける。 (静御前が舞うとにわかに雨雲が現れ、三日間大雨が降り続い
て国土は安穏になった。 法皇は感激されて静御前を『日本一』と称された。) ④義経、静を見そめる静は
源義経(幼名:牛若丸)に水干に立烏帽子という舞姿を見そめられ、側室となる。 画 達富弘之氏(一部を掲
出)
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