発起序(ほっきじょ)    無辺の生死、何んが能く断つ     むへんのしょうじ、いかんがよくたつ    ただ禅那と正思惟のみ有ってす     ただぜんなとしょうしゆいのみあってす    尊者の三摩は仁譲らず     そんじゃのさんまはじんゆずらず    我れ今讃述す、哀悲を垂れたまえ     われいまさんじゅつす、あいひをたれたまえ 限りない生と死を、どのように断つことができようか。 それにはただ心の集中と正しい思念があってこそである。 尊者のさとりの境地を、みほとけは深い立場でお説きになった 私は、いまからそのことを説き示そう、どうかみほとけよ私にお慈悲を与えてください。 大綱序(たいこうじょ)    夫れ、仏法遥かに非ず、心中にして、即ち近し。     それ、ぶっぽうはるかにあらず、しんちゅうにして、     すなわちちかし。    真如、外に非ず、身を棄てて何にか求めん。     しんにょ、ほかにあらず、みをすてていずくにかもとめん。    迷悟我れに在れば、発心すれば、即ち到る。     めいごわれにあれば、ほっしんすれば、すなわちいたる。    明暗、他に非ざれば、信修すれば、忽ちに証す。     みょうあん、たにあらざれば、しんじゅすれば、たちまちに     しょうす。    哀れなるかな、哀れなるかな、長眠の子。     あわれなるかな、あわれなるかな、じょうめんのし。    苦しいかな、痛ましいかな、狂酔の人。     くるしいかな、いたましいかな、きょうすいのにん。    痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る。    つうきょうはよわざるをわらい、こくすいはかくしゃをあざける。    曾て医王の薬を訪わずんば、何れの時にか、大日の光を見ん。    かつていおうのくすりをとぶらわずんば、いずれのときにか、     だいにちのひかりをみん。    翳障の軽重、覚悟の遅速の若きに至っては、    えいしょうのきょうじゅう、かくごのちそくのごときにいたっては、    機根不同にして、性欲即ち異なり。     きこんふどうにして、しょうよくすなわちことなり。    遂じて、二教輙を殊じて、手を金蓮の場に分ち、    ついんじて、にきょうあとをことんじて、てをこんれんの    にわにわかち、    五乗、?を並べて、蹄を幻影の埒に?つ。     ごじょう、くつばみをならべて、ひづめをげんようのらちに    あがつ。    その解毒に随って薬を得ること、即ち別なり。   そのげどくにしたがってくすりをえること、すなわちべつなり。    慈父、導子の方、大綱、此れに在り。    じぶ、どうしのほう、たいこう、これにあり。 そもそも仏の教えは、はるか遠くにあるのではなく、われわれの心の中にあって、まことに近いものである。 さとりの真理は、われわれの外部にあるものではないから、この身を捨てて、どれにそれを求め得ることができようか。 迷いとさとりは、自分の内部に存在しているのであるから、さとりを求める心を起こせば、それがさとりに到達すること。 明るい世界(さとり)と暗い世界(迷い)は自分にあるのだから、信じて努力すればたちどころに悟りの世界は開ける。 なんと哀れなことか、哀れなことか。悟りの世界を知らずに眠りこけている者よ。 まことに苦しいことよ、痛ましいことよ。迷いの世界に酔いしれているものよ。 酔ったものは、酔わないものをあざ笑い、眠りこけている者は、目覚めているものを嘲るものである。 名医を訪ねて薬を手に入れなければ、いつの日に大日如来のさとりの光明を見ることができようか。 真実を見通す眼をおおい隠す眼病になどには、重い・軽いがあるのだから、さとりを得るにつけても速い・遅いの生まれてきて、能力や才能は、すべての人が同じでなく、性格ややる気も差がでてくる。 そこで、密教では、金剛界と胎蔵という二つの教えがあって、修行者があとをたどれるようになっていて、 華厳宗・三論宗・法相宗・声聞と縁覚の二乗・天台宗という五つの教えが、おのおの馬の鞍をかけ、幻や影のような仮の教えの柵の中でひずめをかがめている。 いま病気の程度によって薬を与えることは、それぞれ区別があるのである。 慈しみ深い父親が子供を導く方法は、まさにこれから説く顕蜜の区別に基づく

大空 洋海  http://ameblo.jp/3684/