【8章 アイアイの見送り】




動物病院から不忍池のほとりにある大きな銀杏の木の下に戻った優吾は、

小屋として囲んでおいたダンボールの屋根の部分が無くなっているのに気がついた。

おそらく別のホームレスが持っていってしまったのだろう。

他の持ち物は取られていない様子だった。

絵を描くのに使っていた画用紙の束や鉛筆、コップ、食器、セーター、毛布、どれも残っていた。

明け方、優吾が動物病院を抜け出そうとした時、後ろから呼び止める声がした。

長老のアイアイだった。

全身黒毛のアイアイは、身体を完全に闇に同化させ、目だけを宙に浮かび上がらせている。

「もう、行くのかい? 身体に気をつけて生きのびなさい。誰しも生きていく権利があるのじゃから。元気でお暮らしなさい」

思いもよらぬ言葉に、優吾ははじめてアイアイを見つめる。

この時、優吾はアイアイの言葉が人間の言葉のように聞こえてきたことに、気がつかなかった。

「助けていただき、ありがとうございました」

「いやいや、なんにも助けてはおらんよ。ここにやってきた人間は、皆自分で生きのびたのじゃ。ワシらは、少し手をかしただけじゃ」

しばらく、黙って見つめ合っていた。

この時、なぜだか優吾は、アイアイとは以前どこかで会ったことがあるような気がした。

それがどこで会ったのかは思い出せないが、確かに会ったような気がする。

やがて、優吾はアイアイにお辞儀をすると、ゆっくり背を向けて歩き出した。

後ろからアイアイの声が聞こえてきた。

「よいか、優吾。以前のお前のような死にかけたホームレスを見かけたら、お前もその者をここへ連れてくるのじゃ。それがここを出ていく者の掟じゃ。しかと守るのじゃぞ」

優吾は歩きながら片手をあげて振った。

「それからお前には、どうも人間とは別の不思議な匂いがする。ワシにも理解できん匂いじゃ。それが妙に気にかかる。よいか、何かあった時は、ワシに会いに来るといい」

優吾はそれを聞くと、ふと立ち止まって振り返った。

そして、そのまま遠くから会釈をすると、また背を向けて歩きだした。

もう、いくら待っても、アイアイの声は聞こえてこなかった。



〈続く〉