元来
福祉とは
人の善意から
生まれたものである

戦後日本
バブル崩壊と言われるまで

明治時代
江戸時代へ遡っても

福祉は善意であり
意識するものでもなく
職業分野も
わずかなものであった


宗教の自由である日本は
毎週
毎月
宗教団体を通じて
半強制的な善意を
身に付けたのではない

善意をもつ人間教育を
家庭で習得していたのだ

そして
道徳教育により
人としての分別を学び

倫理社会教育により
社会的適応力と分別を学んだ


高度成長期
勉学に秀でた人間は
道徳心も
社会的視野も
失われたまま
官僚や政治家になった

団塊の世代が
仕事に勤しむ中
家庭内教育も
人としての基礎を持たず
学校教育に
人間形成までを望んだ


バブル崩壊後
道徳教育
倫理社会教育が
日本の教育において
疎かになり

人間形成の出来ていない
善悪分別を理解しないまま
社会人となり組織に入る

そして
善意であったはずの
福祉は
職業の一環となった

現在
福祉は金で買うものに
成り下がり
行政が行うものという
規制が入ってしまった


善意を教育されていない
日本人は
寄付活動をイベント化し
寄付という行為を学び

善意は富裕層がするものと
決めつけている節がある

福祉という
あたかも善意を切り取った
職種が出来たため
医療行為でも
医師の分別で出来た善意も
規制され福祉分野に
含まれてしまった


しかし
福祉という枠を作っても
道徳教育や善悪分別の無い
人間が勉学のみで
資格を取得しても
人間相手の職業に
善意がなくては
マニュアルで動く
ロボットと同じである


福祉に関わる全ての人間に
善意が無いわけではないが
福祉という業種で
賃金を得られるように
してしまったことも
事実である


しかし
現在
福祉対象者の大半は
善意を持ち善意を知る
高齢者や弱者である


恵まれて育ち
社会の末端さえ悪だと
意識する政治家や
福祉分野に携わる世代に
このまま
福祉の将来を
まかせて良いのだろうか

また
福祉を受ける側も
権利として
当然だと思っては
いないだろうか


日本人は
危険や被害に遭遇して
初めて
意識が変わり
物理的対応に動くが
心理的対応は後回しか
行われないことが多々


当事者になって初めて
行政の安直な規制や
法律に苦しみ
同じような境遇の
人間の集団から
善意の輪が生まれるが

本物の福祉に
生かされてはいない


過去を振り返れば
福祉という分野が
存在しない日本には
どこに行っても
善意の輪があり
助け合いの心があった

善悪の分別を
人間同士で学びあった


福祉という
言葉は
善意を
規制のあるマニュアル化の
職業にしてしまった


日本人の
大いなる失敗である


日本のトップから
末端まで
福祉という言葉に甘んず
善意を意識することが
殺伐とする
現代社会の立て直しに
なるのではないだろうか

.
日本人は
期間限定や数量限定など
限定品に弱いのは
周知の通りだろう

しかし
限定と着くだけで
なぜ
日本人は
気になってしまうのか

それは
付加価値をつけることを
得意とする
民族的風潮に
あるのではないか

戦後の食糧難に
米が足りず
穀物を混ぜた飯や
小麦や大麦で
主食の量を
増していた時代

小麦粉の麺に
栄養を加え
日保ちがするようにして
当時
栄養失調が多かった
子供達に
手軽に食べられるものを
と発明された
インスタントラーメン


カラオケも
歌手の声が入った
レコードしかない時代

飲食店の店主が
自分やお客様が
歌いたい歌の伴奏が
欲しいと
考えついたカラオケ

当時は
カセット式の機械に
はめこんで
曲を出して
紙の歌詞カードを見て
歌っていた


そしてそれらの需要が
多様化して
より便利に
より使いやすくと
進化して
現在は
地球上に広まった物達


当時は
どちらも
現状打破から生まれた
発明品だが

次々と
広まったのは
限定とは
しなかったことにある


日本製家電も
使いやすさを
追い求めるばかりに
付加価値をつけすぎて

かえって限定品のような
現状である


地域限定
産地限定は
その地域の活性化を
助けるかもしれないが

移り気な日本人には
ブーム
という言葉で
片付けられてしまう


限定という付加価値を
捨て
広く万人のために

という
物のない時代の
初心に
企業も地域も
目をむければ

これからの
メイドインジャパンの
展望は
明るいのではないだろうか

震災で被害に遭われた
地域の方々が
日本中復興を
広めたいと思う気持ちと
似ているのかもしれない

日本を知ってこそ
世界に通用するものが
出来て
日本から新しいものが
また
世界に広まるように思える
平和を望むのに

軍備や国防を強化して
本当に平和を
望んでいるのだろうか


米ソ
冷戦時代を知る者も
少なくなった

平和のために
核兵器を配備していた時代

ボタン1つで
世界が崩壊してしまう
そんな恐怖が
日々続いていた時代

ソ連崩壊に伴い
ドイツも
西ドイツ
東ドイツと分裂されていた
時代も終わった


国境というものが
国家勢力だと
勘違いしている大国も
まだ
存在する

国境が平和を歪めるのでは
ないだろうか

国境は何故
必要なのだろうか

人口の区分けのための
境界線なら
自国反映の力にはなるが

勢力図として
国境をとらえるから
争い
領土や人種問題に
発展する


日本は海に囲まれた島国

目に見えて国土を
自覚出来る

第二次大戦後
今ある国土を
アメリカやソ連に
提示され受け入れた

沖縄も
戦国数十年は
アメリカの領土だった事を
知る日本人も
減ってしまった

北方四島も
ソ連からの返還が
約束されていたが
未だにうやむやなまま


争いを起こさなければ
領土問題は
解決しないのだろうか


地球という大地は
人間が作ったものではない

宇宙からみた地球に
国境は無い


平和を守るために
国境が必要なのか


ベトナムも
米ソの争いのために
南北に分断された
時代もあるが
現在は1つの国家となり
平和的に
進歩的な発展をした


勢力を告示しようとする
国家は
争い事の記憶を
平和利用せず
争いに向けた力に
換えてしまってる


平和を望むなら
まず
自国の安定が先だろう

国民生活の向上に
国力を注ぐことが
国境の平和利用に
繋がるのではないか


国境は
人間の身体のように
確立されていない


とりあえずと
人間がつくった境界線に
いつまで
恐怖に怯えなくては
ならないのか