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日本近代文学会東北支部
漱石と啄木 日本近代文学会 

私は戦争末期から学校を休んでいた。1944年末から勤労動員にも参加せず、戦後になってもほとんど教室には出ないで寮でごろごろしていた。大学にも何の期待もなく、入学しても教室には出ないで、千葉県の八街に移り住んで地域活動に熱中していた。

柴田は一九三五年生まれで、一九五五年には二十歳、東大の学生だった。年譜にはこの時代のことはまったく書かれていないが、すくなくとも彼の周囲には山村工作隊に参加していった友人たちが多くいたのだろう。かれ自身がそういう動きにのめりこんでいったとは考えられないが、すくなくともそのような時代の雰囲気を生き、そのように一途に生きる若者たちに強い関心をもっていたのだと思う。
 ちなみに大江健三郎も柴田と同年で、方向転換以後の学生たちが陥った絶望的な雰囲気についてしばしば書いている。<われらの時代>と彼が言うとき、それはこのような時代のことなのだ。

一九九五年十月五日
①『三島由紀夫伝説』一九九三年二月  新潮社
②『小説中央公論』一九六〇年・冬季号
③『文学界』一九六一年十二月号
④一九六九年二月  新潮社
⑤『文芸』一九六七年二月号
⑥『中央公論』一九六八年八月号
⑦一九六九年四月  新潮社
⑧『行動学入門』 一九七〇年十月 文芸春秋
⑨「討論を終えて」『討論 三島由紀夫 vs. 東大全共闘』一九六九年六月 新潮社
⑩一九六八年十月  『文化防衛論』前掲
⑪「『われら』からの遁走」 『われらの文学』5  講談社  一九六六年三月
⑫「終末感からの出発」 『新潮』一九六五年八月号
⑬「空白の役割  『新潮』一九六五年六月号
⑭「八月十五日前後」『毎日新聞』一九五五年八月一四日
⑮「わが魅せられたるもの」『新女苑』一九五六年四月号
⑯「学生の分際で小説を書いたの記」『文芸』一九五四年十一月号
⑰「私の戦争と戦後体験」『潮』一九六五年八月号
⑱「招かれざる客」『書評』一九四七年九月
⑲「歴史の外に自分をたづねて」『中央公論』一九五六年二月号
⑳「私の戦争と戦後体験」前掲
(21)「人間の将来と詩人の運命について」一九四七年二月
(22) 同前
(23)「招かれざる客」前掲
(24) 一九四六年七月
(25)「終末感からの出発」前掲
(26)「空白の役割」前掲
(27)「『われら』からの遁走」前掲
(28) 同前
(29)「わが魅せられたるもの」前掲
(30)『若きサムラヒのための精神講話』一九六九年七月 日本教文社
(31)『討論 三島由紀夫 vs. 東大全共闘』前掲
(32)「討論を終えて」前掲

工場を休んで図書館通いをしていた私は何かを体系的に学ぼうとしていたわけではなく、雑然と読み漁っていたのだったと思う。当時何を読んだのかまったく記憶がない。図書館のカードボックスを見ても、社会という項目はまったくからだった。多分、疎開して書庫はからになっていたのであったろう。あるいは思想関係の本は閲覧が禁止されていたのかも知れない。そして、当時の入館者は、もしかしたら私ともう一人の老人だけだったのではないかという気がする。私は九州の疎開先にも落ち着けず、やがて東京に帰って、学校の寮に入ったのだと思うが、寮に入っても、学校があるわけではなく、友人たちが工場に行ったあとは、寮でただぼんやりと日を過ごした。この頃は図書館にも通わなくなっていたと思う。私は次第に西行や芭蕉の世界にのめり込むようになっていた。そのうちに五月の空襲で家を焼かれ、罹災者として再び九州の疎開先に行ったのである。

しかし、もう一度東京に帰り、再び九州にもどって、そこで<七月二十日に甲府の連隊に入隊せよ>という電報を受取った。電報を受取ったのは入隊せよという二十日の夜だったから、別れを惜しむ間もなく出発しなければならなかった。私は何の感慨もなかったが、送り出す母はずいぶん辛かったと思う。当時は気にもかけなかったが、その時の母の気持ちは、いまになってようやく身にしみて思われるようになった。

このような空虚な心を抱いて、私は戦後の激動の時代を迎えた。私はさまざまな思いをして戦後の時代を生き、その後半世紀以上も生きて、いま、再び死を目前にひかえて、いつまでつづくか分らぬ日々を生きている。この私の心に、空虚な心を抱いて生きた青年の心がなつかしくよみがえる。私にはあの頃とすこしも変らぬ心で、いまの激しい時代を生きているのだという思いがある。
 そして、漱石が死の年に「点頭録」を書いたことを、今さらのように、身にしみて思い返すのである。<また正月が来た。振り返ると過去が丸で夢のように見える。何時の間に斯う年令を取ったものか不思議な位である>< 近頃の私は時々ただの無として自分の過去を観ずる事がしばしばある>と述べて、はげしい言葉で世界大戦の現実を論じている。それは当時としてはもっともすぐれた<軍国主義>論であった。

 それは漱石の<遺書>ともいうべき、もっとも大事な言葉だと思うが、いまは全集以外で読むことは困難になった。私は今の漱石ブームを信ずることが出来ない。

              (2002年8月2日) (2002年 はまゆう)