工場を休んで図書館通いをしていた私は何かを体系的に学ぼうとしていたわけではなく、雑然と読み漁っていたのだったと思う。当時何を読んだのかまったく記憶がない。図書館のカードボックスを見ても、社会という項目はまったくからだった。多分、疎開して書庫はからになっていたのであったろう。あるいは思想関係の本は閲覧が禁止されていたのかも知れない。そして、当時の入館者は、もしかしたら私ともう一人の老人だけだったのではないかという気がする。私は九州の疎開先にも落ち着けず、やがて東京に帰って、学校の寮に入ったのだと思うが、寮に入っても、学校があるわけではなく、友人たちが工場に行ったあとは、寮でただぼんやりと日を過ごした。この頃は図書館にも通わなくなっていたと思う。私は次第に西行や芭蕉の世界にのめり込むようになっていた。そのうちに五月の空襲で家を焼かれ、罹災者として再び九州の疎開先に行ったのである。
しかし、もう一度東京に帰り、再び九州にもどって、そこで<七月二十日に甲府の連隊に入隊せよ>という電報を受取った。電報を受取ったのは入隊せよという二十日の夜だったから、別れを惜しむ間もなく出発しなければならなかった。私は何の感慨もなかったが、送り出す母はずいぶん辛かったと思う。当時は気にもかけなかったが、その時の母の気持ちは、いまになってようやく身にしみて思われるようになった。
このような空虚な心を抱いて、私は戦後の激動の時代を迎えた。私はさまざまな思いをして戦後の時代を生き、その後半世紀以上も生きて、いま、再び死を目前にひかえて、いつまでつづくか分らぬ日々を生きている。この私の心に、空虚な心を抱いて生きた青年の心がなつかしくよみがえる。私にはあの頃とすこしも変らぬ心で、いまの激しい時代を生きているのだという思いがある。
そして、漱石が死の年に「点頭録」を書いたことを、今さらのように、身にしみて思い返すのである。<また正月が来た。振り返ると過去が丸で夢のように見える。何時の間に斯う年令を取ったものか不思議な位である>< 近頃の私は時々ただの無として自分の過去を観ずる事がしばしばある>と述べて、はげしい言葉で世界大戦の現実を論じている。それは当時としてはもっともすぐれた<軍国主義>論であった。
それは漱石の<遺書>ともいうべき、もっとも大事な言葉だと思うが、いまは全集以外で読むことは困難になった。私は今の漱石ブームを信ずることが出来ない。
(2002年8月2日) (2002年 はまゆう)