加納石人の書線
貧乏神
以下、石人の文章
戯書礼讃
以前、仏画と仏書について陳べた。今度は戯画と戯書について考える。
ほんのあそびごころ…で、たわむれにモノを書いて遊ぶ。たわいのないものかもしれぬが、その底に庶民の心があり、ユーモアがあり、常に体制への批判がある。
それはスローガンではない。世の中への警告なんてモノでもない。いわば皮肉風刺の類い、パロディであり狂歌であり川柳の世界である。
長屋の住人のせめてもの憂さ晴らし。
こういうものを書芸術の場に取り入れることに抵抗する向き(当然のことだ)もあろうが、そんな書表現(純粋な)を横目で見て、ざまあみろと叫びたいものもある。
スローガン・看板・標識の類いは確実に読めなくては用をなさないが、落書き・いたずら書きは必ずしも読めなくてはならぬということはない。相合い傘の左右に何と書かれようがこれだけでどんなことか、大づかみにニヤッとすれば済むことだ。
いたずら書きには、その根底に願望と現実とのギャップ、それに対する風刺・皮肉・ブラックユーモア。また単なるユーモア(それもごく庶民的な、いわば長屋的な)もあり、狂歌・川柳・落語の世界に共通する。
これらには(そしてこれらの作者には)つねに体制に対する批判(反抗)があり、異端の存在を誇るものがある。それは、これが単なるその場限りの思いつきだけでなく、前述のように体制に対する痛烈な批判を内包し、作者の志操がモノ言うからである。でなければ本当の風刺も生まれない。
いたずら書きに芸術性はない。なくてよい。芸術性を優先させて書くいたずら書きはない。しかし、結果として作者の志操が反映されて一種の芸術性(芸術には多面性がある)を生み出したとしても、それは否定されないし、むしろそこに新しい芸術が創り出されたとしても不思議ではないだろう。
1993年3月 加納 石人 記
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ようこそ!
随風社 加納朱美です。
上記の文は、
石人本人の清書を転記しました。
とても読み易く
スカッとするリズムに、
歯切れの良い論点!!
この論文は、特に好きです。
他にも、様々な文章が
《石人覚書》と題された白い本に
万年筆の手書きで残されています。
論文や日記、手習の絵など
様々な記録が残されています。
膨大な資料から学び、
自分の中に落とし込み
一旦白紙に戻した上で
新たな自分の創作を完結させる。
…私自身は、そんな印象を持っています。
難解な文を綴るより、
中学生が完全に理解出来る
わかりやすく明瞭な文を書く方が
難しいと思います。
石人は、そんな文章をサラリと
論文に残しています。
生前の義父石人に、
様々なことを聞いておけば良かった…
と、しみじみ思います。
四国八十八ヶ所三十一番
寺名: 五台山 竹林寺
御本尊: 文殊菩薩
御真言
おん あらはしや なう
御本尊御詠歌
『なむもんじゅ さんぜしょぶつのははときく
われもこごころ ちちこそほしけれ』