加納石人の書




李白<七言絶句>


一爲遷客去長沙 

(一たび遷客と為って長沙に去る)


西望長安不見家

西のかた長安を望めども家を見ず)


黄鶴樓中吹玉笛 

(黄鶴楼中玉笛を吹く)


江城五月落梅花 

(江城五月梅花落つ)




加納石人の書の世界へ

お越し下さり、ありがとうございます。


ご無沙汰いたしました。

m(_ _)m


興味深い記事を教えて頂き

夢中になっておりました。




まずは、本日の李白詩の解説を。

(スッキリしませんものねえー)


58歳の李白が流罪となり

遠国に流される途中の長沙の地で

郎中(官職名)  史欽が訪ねてきて

李白を黄鶴楼に誘った。

限られた時間を旧友と過ごす李白の耳に

ふと聴こえてきた笛の音が

ひときわ しみる……

旧友との静かなひとときに込めた感情が、

この詩の主題です。》



今日は、なぜ李白の詩を選んだか?

珍しく理由がありまして…

(いつもは、サラッと眺めて、目に留まった作品を

ご紹介しています♪)


冒頭の《興味深い記事》を読み始めた時に

一番最初に思い浮かんだ作品だったから。


尊敬する《toudou455》様に

教えて頂きました


きっかけは、


この句の『みの虫』について、

コメントを頂きました。

そして、すぐにこの記事に飛びました。


https://discoverjapan-web.com/article/43441


石人の句の『みの虫』が、

蓑虫山人を意識した上での『みの虫』

なのか…

ご本人に聞いてみないと、わかりません笑い泣き


義父石人が、蓑虫山人を知っていたら…

大好きだったのではないかと思います。


私の知る、ほんの一面だけの姿だけでも

《似た匂い》を感じます。


※以下、上記の誌面より一部引用させて頂きました※


放浪の絵師として知られる蓑虫山人、

本名は土岐源吾。ほかにも「蓑虫仙人」

「三府七十六県庵主」

「六十六庵主」とも称されている。

虫の蓑虫が家を背負うように

折りたたみ式の幌(テントのようなもの)

を背負い、嘉永2年(184914歳のときに

郷里を出て以来、幕末から明治期の48年間にわたって全国を放浪し、

その足跡は全国各地に残されている。


源吾の家出は50年近く続く。

もはや中二病とはいえない。

漂泊者として、変人として


どのくらいの覚悟が源吾(蓑虫)に

あったのかはわからない。

しかし、後の行動や絵日記などから

読み取ると、源吾は自分と同じような

変人や、漂泊の詩人や思想家といった

人物を研究していた節が見えてくる。

好んで描いた画題は、達磨大師に、

中国の変人コンビである寒山・拾得。

また、変人中の変人であり

漂泊の詩人でもある李白の

著名な漢詩『白髪三千丈』をまねして

おどける自身の姿を後に絵日記に

描いてもいる。

日本でいえばもちろん漂泊の俳人

・松尾芭蕉も好きだったようだ。

  ※以上、引用※



上記に登場する人物の作品は、

石人の作品の題材としても多数存在します。


漂泊者、変人…とたいそうないわれ方ですが

一見厳格で几帳面な石人の中では、

憧れの存在だったのでは?

と思います。


私自身、上記の誌面に夢中になって

数日過ごしているので…

私も変人なのかもしれません。


でもね。

何をもって、変人だと蔑視するのでしょう。


あらゆる垣根を飛び越えて(踏み倒して)

己の心のままに生きたから、

歳月を超えて支持されていると

思います。

相当に勇気のいる生き方です。

(ご当人は気にしてなさげですが…)


もの凄く面白い記事なので、

お時間のある時に、

ビュンと飛んで読んでみてくださいウインク


toudou様、今回もご教示頂き

ありがとうございました。m(_ _)m

今も、めちゃくちゃ楽しんでいます爆笑