はじめに

ドストエフスキーの考えるロシアの本質というものを論ずるとき、ロシアのキリスト教であるロシア正教と離して考えることが出来ない。しかし、ドストエフスキーはヨーロッパ的教養を身に着けた人間であり、カトリックや社会主義、さらには無神論的傾向とも無縁ではない。また、ドストエフスキーの考えるロシア人のキリスト教は一種独特である。ここでは、ドストエフスキーが考えたロシア人のキリスト教の本質を、彼の文章の中から摘記しつつ、考えて行くことにしたい。

 

1.       『白痴』の例――背信者と神

ドストエフスキーは『白痴』のなかで、主人公ムイシュキン公爵に宗教(ここではキリスト教)について、次のように言わせている。

 

「宗教的な感情の本質はどんな理屈とも、どんな過失や犯罪とも、どんな無神論とも折り合わないものだ。そうしたものにはなにか見当外れのところがあって、しかも永遠に見当外れのままなんだよ。つまり宗教的な感情のある一面に関しては、無神論は永遠にこれを捉え損っていつまでも頓珍漢な議論をしているわけさ。だが肝心なのは、ロシア人の心のうちにこそ、その感情が一番明確かつ直截にみいだされるということだ。」(『白痴』第2部の4)[1]

 

これはムィシュキンの考えであると同時にドストエフスキーの考えでもあるだろう。どんな哲学も神学も無神論も社会主義も宗教的感情の本質をとらえそこなっている。無神論は神についての考察を行ったうえで、キリスト教の神の存在を否定するものであり、例えばフォイエルバッハは、「神的存在とは人間がその充たされざる願望を超越的世界に投影した結果の産物であり」[2]神学の本質は人間学であると言ったが、ドストエフスキーはムィシュキンの口を借りてこれを否定する。ドストエフスキーの宗教的感情を理論的に説くのは難しいのであるが、ムィシュキンは次のような驚くべき例を持ち出してそれを語る。

ムィシュキンはある晚、ある郡の旅館で一夜を明かすが、そこで前の晩に起こった殺人事件を耳にする。二人の農民が一部屋に一緒に泊まることになった。そのうちの一人が、相手の男がそれまで見たこともないような銀時計を黄色の数珠玉のついた紐につけて持っているのを目に留めた。彼はその時計があまりにも気に入って、心を惹かれたので、ついに我慢ができなくなった。彼はナイフを握ると、友達が向こうを向いる隙にそっと後ろから忍び寄り、狙いを定めてから天を仰いで十字を切り、心の中で 『神さま、キリストさまに免じてお許しを!』と切ないお祈りをすると、一息で、まるで羊を殺すように友人を斬り殺し、時計を抜きとった、という話である。

ドストエフスキーは、『白痴』の主要登場人物の一人である陰気なロゴージンに、この話を次のように評させる。

 

「そいつは気に入った!いや、なんともよくできた話じやないか!」彼はひきつけを起こしたように、ほとんど息を詰まらせながら叫んだ。「まるっきり神なんか信じちゃいない奴がいるかと思えば、あんまり深く信じているせいで、人を斬り殺す前にさえ神さまにお祈りする奴もいるってえわけだ……いや公爵さんよ、そんな話はなかなか思いつけるもんじゃねえ!はっはっは!いや、こいつはまったくよくできていらあ!」(『白痴』第2部4)[3]

 

あまりにも深く神を信じているゆえに、人を殺す前にさえ神に祈るというアイロニカルな話にこのように激しい笑いで反応するのは、おそらくそれがロゴージン自身がこれから犯すことを決意している犯罪(ナスターシャ斬殺)にも当てはまると感じたためであろうが、ここではそれは問題にしない。ムィシュキンは、犯罪者や、背信行為者の中にこそ普段は隠されている真の宗教的感情が現れていると考える。そして、このような宗教的感情が最も明らかな形で存在しているところにロシア人の特質があると考えるのである。

 

「だが肝心なのは、ロシア人の心のうちにこそ、その感情が一番明確かつ直裁に見出されるということだ——それがぼくの結論さ!これこそぼくがわがロシア体験で真っ先に身に着けた信念のひとつだ。なすべきことはあるよ、パルフョーン!われらがロシア社会にはなすべきことがある、そうじゃないか!」[4]

 

犯罪者の心のうちにこそ神が宿っているという考えは、親鸞の「善人なほもて往生す、いはんや悪人をや」という言葉にあるように、われわれ日本人にも無縁ではない。しかし、ムィシュキンはそれをロシア人の中に一番明確に表れると考え、そこにロシア人の人類に対する使命が隠されていると考えるのである。

 

2.       極限と苦悩への渇望と神の哀れみ

背信者の信仰の例をもう一つ『作家の日記』から挙げてみよう。それはドストエフスキーがある修道僧から聞いた話である。ある日、一人の百姓が地面を這ってやってきて、自分は呪われていると言う。そのわけを聞いてみると、村の若者が何人か集まって、《誰が一番大胆不敵なことがやれるか?》という話になったと言う。その百姓は自慢したくて、それは自分だと名乗りをあげる。するともう一人の若者が《おれがおまえに言う通りのことを何でもするって、あの世でのお救いを賭けて誓ってみせろ》と言って誓わせる。そして精進が始まり、断食を始め、聖餐式に行った時、聖餐を飲みこまずロから取り出しておけと命ずる。

 

「わたしはその通りにしました。教会からそのままわたしを野菜畑に連れこんだんです。長い竿をとって地面に突きさすと《つけろ!》と言うんです。わたしは(聖餐を)竿につけました。《今度は鉄砲をもって来い》と言うのです。わたしはもって来ました。

《弾丸をこめろ》 弾丸をこめました。

《かまえて、撃て》

わたしは腕をあげて狙いをつけました。そしてもうこれから撃とうという時に、急にわたしの前にまぎれもなく十字架が現われて、その上には、はりつけにされたキリスト様がおられるのです。わたしはそこで鉄砲をもったまま気絶して倒れてしまいました。」[5]

 

という話である。この話の心理的部分は、ロシアの民衆の典型的な型を表しているとドストエフスキーは考える。それは、ロシアの民衆は「あらゆることについて尺度をいっさい忘れ去って」極限まで行こうとするという欲求を持っていて、この欲求はロシア国民の苦悩に対する渇望と一つになっている、と言うのである。

 

「思うに、ロシア国民のもっとも主要な、もっとも根本的な精神的欲求は、苦悩の欲求、それも、時と場合にかかわらぬ不断の、抑えがたき欲求なのである。ロシアの国民は、はるかな昔より、この苦悩の渴望におかされているらしい。苦悩は一つの流れとなってロシアの全歴史を貫いているが、外面的な不幸や災禍からだけではなく、国民の心そのものから泉のようにこんこんと湧き出てくるのである。ロシアの民衆にあっては、幸福の中にすら必ず苦悩の部分があるが、さもないとその幸福は彼らにとって完全なものではないのだ。(中略)ロシアの民衆は自分の苦悩をまるで楽しんでいるかのようだ。」[6]

 

この苦悩への渇望を具体的に表しているのは『罪と罰』のマルメラードフの例である。マルメラードフは、飲んだくれで、失業し、自分の娘ソーニャを売春婦にしてしまうが、その娘に飲むための金をせびりに行くという、どうしようもない誰からも相手にされなくなった男であるが、この男が『罪と罰』の冒頭、酒場でラスコーリニコフに会って自分の身の上話をし、最後にこの男には似合わぬような終末論的幻想を語る。

 

「「おれみたいな奴ははりつけにすりゃいいんだ、十字架にはりつけにすりゃいいのさ、あわれむなんてまっぴらだ!でもな、裁き手さんよ、十字架にかけるのはいい、かけなされ、そしてかけたうえで、あわれんでやるものだ! そしたらおれはすすんで十字架にかけてもらいに行くよ。それだって愉悦に飢えているからじゃない、悲しさと涙がほしいからだ!……おい、亭主、おまえが売ってくれたこの小びんが、おれを楽しませたと思うのかい?悲しみさ、悲しみをおれはびんの底に求めたんだ、悲しみと淚、そしてそれを味わい、それを見つけたんだ。おれたちをあわれんでくれるのは、万人をあわれみ、万物を理解してなさるお方、唯一人のお方、そのお方が裁き主なんだよ。裁きの日にそのお方があらわれて、こう聞きなさるだろう。《性悪な肺病の継母と、幼い他人の子供たちのために、わが身を売った娘はどこにいる?役にも立たぬ飲んだくれの父に、そのけだものにも劣る行為をもおそれずに、あわれみをかけてやった娘はどこにいる?》そしてこう言いなさるだろう。《ここへ来るがよい!わしはもう一度おまえを許した……一度おまえを許してやった……そしていまも、生前おまえはたくさんの人々に愛の心を捧げたから、おまえのたくさんの罪は許されるであろう……》こうしてわたしのソーニャは許される、許されるとも、わたしは知ってるんだよ、許されることを……それをわたしは、さっきあの娘のところへ行ったとき、心の中で感じたんだ!……みんなが裁かれ、そして許されるんだ。善人も悪人も、かしこい者もおとなしい者も……そしてひとわたり裁きがすんでから、はじめてわしらの番になるのさ。《おまえたちも出てくるがいい!飲んだくれも出て来い、弱虫も出て来い、恥知らずも出て来い!》そこでわしらはみな臆面もなく出て行って、ならぶ。すると裁き主が言う。《おまえたちは豚どもだ!けだものの相が顔に押されている、だが、おまえたちも来るがいい》すると知者や賢者どもが申したてる。《主よ、どうしてこのような者どもを迎えるのです?》するとそのお方がおっしゃる。《知者どもよ、賢者どもよ、ようく聞くがいい、これらの者どもを迎えるのは、これらの誰一人として自分にその資格があると考えていないからじゃ……》そしてその御手をわしらのほうへさしのべる、わしらはひれ伏して……泣き出す……そしてすベてがわかるようになる!そこではじめて目がさめるのだ……みんな目がさめる……力テリーナ・イワーノヴナも……やはり目がさめる……主よ、汝の王国の来たらんことを!」

彼は疲れはてて、まわりに人がいることを忘れたように、誰の顔も見ないで、ぐったりと椅子にくずれ、探いもの思いにしずんだ。彼の言葉はかなりの感銘をあたえたらしく、ちょっとの間店内がしーんとなったが、すぐにまた笑い声や、ののしる声々が起った。」『罪と罰』第一部2[7]

 マルメラードフもまた極端に入ってしまった男であり、苦悩への渇望を抱えた男である。自分のその見下げ果てた姿を自ら笑い、涙し、肺病やみの女房に髪を捕まえて引きずり回されるのに快感を覚えるという男であるが、同時に自分は救いようのない罪人であり、自分にはその資格がないと自覚しているからこそ、そんな自分をも神は哀れんでくださるという、逆説的な考えを語るのであるが、これはマルメラードフのというよりはドストエフスキー自身の考えであろう。

『白痴』においても、上述の神に祈ってから人殺しをしたエピソードに続いて、ムィシュキンは次のような話をする。彼は、道で赤ん坊を抱いた一人の農婦に出会う。すると赤ん坊が、生まれてはじめて彼女に笑いかけたらしい。母親は不意に敬虔なしぐさで十字を切る。ムィシュキンがその動作の意味を尋ねると、母親は答える。

 

『だって、こうしてわが子のはじめての笑顔を見たときに母親が感じる喜びっていうのは、罪人が心の底から祈るのを天上から見るたびに神さまが味わう喜びと、まったく同じですからね』[8]

 

ムィシュキンは、この言葉の中に、「繊細な、そして本当に宗教的な思想を、キリスト教の真髄をまとめて表現してしまうような思想」を見出したと言うのである。マルメラードフという極端まで行って深淵を除いた罪人もまた、心の底から神に祈ったとドストエフスキーは考えたのではあるまいか。

 

3.       受難

ロシアのごろつきや犯罪者は、「何よりもまず自ら受難者なのである。」とドストエフスキーは言う。どんなにひどい悪漢でも、「自分の無頼な心の底でひそかに、何か直感のようなものを通して、結局のところ自分が単なるごろつきにすぎないという声を聞いているのである。」「そして心の中で分刻みでだんだんと増してくる自分の苦悩と格闘しながら、それとともに一方ではその苦悩を心ゆくまで楽しみ、まるで快楽を得るようになつて、とうとうぎりぎりのところにまで行ってしまうのである。」[9]この自分の苦悩を渇望しまるで楽しむかのようだというマゾヒズム的傾向を持つロシア人を、ドストエフスキーが「受難者」と名付けるのは、彼がそれをキリストの受難と結びつけて考えているからである。

 

「ロシアの民衆は福音書をよく知らない、信仰の基本的な原理を知らないと言われている。もちろん、その通りである。しかし民衆はキリストを知っている。そしてずっと昔からその心の中にキリストをいだいている。このことには いささかの疑いもない。信仰について学ぶことなしに、キリストの真実の観念が可能であるのか?——これはまた別の問題である。しかしキリストについて心によって得られた知識と、キリストについての真実の観念は、十全に存在するのである。それは世代から世代へと受け継がれ、人びとの心と融けあったのである。おそらく、ロシア民衆の唯一の愛の対象はキリストであって、民衆はキリストの姿を自己流に、つまり苦悩にいたるほどに、愛しているのである。」[10]

 

 ドストエフスキーはロシアの民衆のことはほとんど知らなかったが、ペトラシェフスキー事件に連座して、シベリアのオムスク監獄の中で民衆に接し、初めて深く知ることになった。そこでドストエフスキーは上のように考えるようになったのである。獄中記ともいうべき『死の家の記録』の中には貴族、民衆、外国人など様々な人間が出てくる。その中に、ニコンの改革による新教を認めず、新教徒の教会に火をつけて焼失させた老人の話が出てくる。この話は、ロシア民衆と旧教との強い結びつきを示すものとなっている。

それは六十歳ぐらいの小柄な白髮の老人で、ドストエフスキーはこの老人をー目見て、深い感銘をおぼえる。彼は他の囚人たちとはまったくちがっていて、おだやかで明るく澄んだ目をしていた。こんな善良な、心のやさしい人間には、これまでほとんど会ったことがないと思われるほど善良な人間だった。その老人がこの監獄に送られてきた理由は、その信仰にあるのだった。彼の村の旧教徒たちの間に新教への改宗者があらわれはじめ、政府はこれを大いに奨励した。老人は仲間の熱心な信徒たちとともに、『信仰を守る』決意をした。正教の寺院の建築がはじまると、彼らはそれを焼きはらった。その首謀者の一人として、老人は流刑地へ送られたのである。この老人と『信仰について』話しても、老人はぜったいに自分の信念をゆずらなかった。そこには少しの悪意も憎悪もなく、寺院を破壊したことも隠そうとしなかった。彼は、自分の信念によって、自分の行為と、そのために受けた『苦しみ』を、光栄と考えているらしかった。しかし、彼にはごくわずかな虚栄心あるいは誇りも認めることができなかった。(中略)しかし、やはり彼の心の底にはいやすことのできない深い悲しみが秘められていた。ある夜のこと、老人が暖炉の上に坐って自分の手書きの聖書を読んでいた。彼は泣いていた、そして彼がときどき、「主よ、わたしを見すてないでください!主よ、わたしを強い人間にしてください! わたしの小ちゃな子供たちよ、かわいい子供たちよ、もうおまえたちには二度と会えまい!」[11]とつぶやいていた。

穏やかな人柄であったが、しかし、自分の中の信仰(と言っても、上述のように、2本指で十字を切るか、3本指で切るかという些細なことに見える事柄)に関しては決して譲らず、政府に逆らい、正教寺院を焼失させるというテロ行為をあえてするこの老人の描写の中で、ドストエフスキーはロシア人の中にキリスト教がいかなる形で根付いているか、その一端を表そうとしているのである。この老人の監獄生活という「受難」を、キリストの受難と重なるものとしてドストエフスキーは考えていたのであろう。

 

4.       「不仕合せな人たち」としての犯罪者

ロシア国民の中には無意識に存在し、生きるためのエネルギーになっているような隠された真実の思想というものがあると、ドストエフスキーは考える。ロシアの民衆は犯罪者を「不仕合せな人」と呼び、これらの人々に小銭やパンを与えるという習慣がある。この習慣は他の国民には見られない、ロシアだけに見られるものであり、この習慣の中に純ロシア的思想が隠されているとドストエフスキーは考えるのである。この隠された思想を言葉にして言えば次のようになる。

 

「あんた方は法に背いた。そして苦しんでいる。だがわしらも罪深い。わしらがあんた方の立場におかれたら、もつと悪いことをしたかも知れない。わしら自身がもっとましな人間だったら、あんた方も牢屋に入らないでもすんだかも知れない。あんた方は自分の罪と、それに世間みんなの不法違法を償うために、重荷を背負ったのだ。わしらのために祈っておくれ。わしらもあんた方のために祈ろう。『不仕合せな方々よ』とりあえず今はわしらのはした金を受け取ってくれ。これをあげるのは、わしらがあんた方のことを覚えているってことを、あんた方と兄弟の絆を切らなかったってことを、あんた方に知つてもらいたいからだ」[12]

 

犯罪者の一人一人が、世間全体の罪を償うために、その重荷を背負い、刑に服すことになったのだというこの思想は、まさにイエス・キリストの受難の思想と同じではないだろうか。ドストエフスキーはロシア民衆の犯罪者への態度の中に、キリスト教思想の核心部分を見ているのである。犯罪は犯罪者を取り巻く環境によって起こるという「環境犯罪説」をドストエフスキーは否定する。

 

「いや、民衆は犯罪の存在を否定していないし、罪人に罪があるということを知っている。民衆はただ、自分も一人一人の罪人とともに罪があるということを知つているのである。けれども自分に罪ありと認めることによって、民衆はそのことによっていわゆる「環境」の存在を信じていないことを証明してみせている。その反対に民衆は、環境こそ完全に自分たちに依存している、自分たちの絶えることなき悔悟と自己完成に依存している、と信じている。エネルギー、労働、闘争――まさにこれらによって環境は改造される。労働と闘争によってのみ自主性と自己尊重の感情が獲得される。「それを獲得してより良い存在になろう。そうすれば環境も良くなるだろう」。まさにこれが、ロには出さなくとも、ロシアの民衆が罪人の不仕合わせについての自分の秘めたる思想の中で、強烈な感覚をもって感じとっていることなのだ。」[13](同上)

 

民衆は自分にも罪があるということを知っており、悔悟と自己完成のための労働と闘争によって自由を獲得し環境を改善する、それが犯罪者を「不仕合せな人々」と呼ぶ民衆の心の中に秘められた思想である、というのである。この一人の罪は万人の罪であるという思想は『カラマーゾフの兄弟』においてゾシマ長老によって、明確に述べられることになるので、ここではこれ以上述べることはしない。

 

5.       カトリックと無神論の西欧への対抗

以上のような形で、ドストエフスキーはロシアの民衆の中にいかにキリスト教が根付いているかを論ずるのであるが、さらに一歩を進め、ドストエフスキーは、このロシア民衆のキリスト教信仰によって、西欧のキリスト教であるカトリックに対抗すべきことを説く。

『白痴』においてムィシュキン公爵はカトリックがキリスト教であることを否定し、それはむしろアンチ・キリスト教であり、無神論も社会主義もそこから生まれてきたという驚くべき見解を述べる。

 

「「カトリックがキリスト教と違う信仰ですって?」イワン・ペトローヴィチが椅子に座つたままくるりと振り返つた。「じゃあ、いったいどんな信仰だというんです?」

「非キリスト教的な信仰です、これが第一!」むやみに興奮したまま、度外れてきつい口調で、ムィシュキン公爵はまたしゃべりだした。「これが第一です。それから第二に、ローマ・カトリックは無神論よりもさらに悪い、これがぼくの意見です!そうです! それがぼくの意見なのです!無神論はただ無を教導しているにすぎませんが、カトリックはさらに上手を行つて、歪められたキリストを教導している、つまり彼ら自身が誹謗し、貶めつくした、正反対のキリストを教導しているのです!つまりアンチ・キリストを教導しているのですよ、(中略)ぼくに言わせれば、ローマ・カトリックとは宗派でさえなくて、はっきりとした西口ーマ帝国の延長に他ならず、そこでは信仰をはじめすべてが、西口ーマ帝国の理念に追随しているのです。法王は地を席巻して地上の王位に就き、剣を手に取りました。そして以降すべてがその方向に歩んできたのです。ただ剣に加えて虚偽や老獪さや欺瞞や狂信や迷信や悪事を活用し、人々のもっとも神聖な、正しい、純朴な、熱烈な感情をもてあそび、すべてを、すべてを金に、卑俗な地上の権力に見替えてきただけなのです。はたしてこれがアンチ・キリストの教えでないでしようか?!どうして彼らのもとから無神論が出てこないはずがありましようか!無神論はまさに彼らのもとから、ローマ・カトリックから発生したのです!無神論の発生源は、なによりもまず彼ら自身でした。だって、彼らは自分自身を信じることができたでしようか?無神論はそういう彼らへの嫌悪を力として成長した、いわば彼らの虚偽と精神的な無力の産物なのです!無神論!わが国では、信仰を失ったのはいまだ単に例外的な階層のみ、(中略)根なし草的な階層のみです。ところがかのヨーロッパでは、恐るべきほどに大量の人民大衆そのものが、すでに信仰を失いはじめています。それも、かつては迷妄や虚偽が原因だったのが、いまではすでに狂信が原因で、つまり教会とキリスト教に対する憎悪が原因で信仰を失うのです!」

(中略)

「なるほど、しかしそういうことはすべて分かりきったことで、むしろ言うまでもないことですし、それに……神学の領域に属することですから……」

「いや、違います、違いますよ!これははっきり申しますが、神学だけの問題ではありません!これはお考えになっているよりは、はるかにわれわれに身近な問題なのです。まさにこれが単なる神学の問題ではないということをいまだに理解できないでいるところにこそ、われわれの過ちのすべてがあるのです!だって、社会主義だってカトリックの産物で、カトリックの本質から生まれてきたんですよ!社会主義もまた、兄弟分の無神論と同様、絶望に発していて、精神的な意味でカトリックの対極を目指している、すなわち失われてしまった宗教の精神的な権力をみずから肩代わりして、精神の渴きに苦しむ人類の喉を潤し、キリストによってではなく、またもや暴力によって人類を救おうとしています!これも同じく暴力による自由であり、同じく剣と血による団結なのです!

『神を信ずるなかれ、私有財産を持つなかれ、個の人格を持つなかFraternité ou la mort(友愛か、もしくは死だ)、二百万の首を飛ばせ!』[14]その行いによりて彼らを知るべし[15]とは、うまく言ったものです――ただし、こうしたことがすべて罪のない、われわれにとって無害なものだとは思わないでください。それどころか、われわれは対抗する必要があります、しかも一刻も早くです!西欧に対抗するためには、われわれが守ってきた、彼らの知らなかったキリストが、輝きだすべきなのです!我々は奴隷のようにイエズス会の罠にはまるのではなく、自分たちロシアの文明を彼らにもたらし、今や彼らの前にしっかりと立ちはだかるべきなのです。」[16]

 

このようにムィシュキンは無神論化したヨーロッパの文明に対抗するものとしてロシアのキリスト教を説く。このキリスト教は単なる制度化されたロシア正教ではなく、以上に述べ来たったところのロシア人の無意識の中に潜んでいるキリスト教であろう。

『未成年』の主人公アル力ージィの父ヴェルシーロフは、滅びゆくヨーロッパ文明とそのあとにくる人々の愛と憂愁に満ちた和解の世界を語ったのち、次のように言う。

 

「わしの信仰などは浅いものだし、わしは――理神論者だ、われわれの千人と同じように、哲学的理神論者だよ、わしはそう思っている、ところが……ところがおかしなことに、わしの幻想はかならず、ハイネのそれのように、『バルチック海のキリスト』で終るんだよ。わしは どうしてもキリストをさけることができない、最後に、孤独になった人々のあいだに、キリストを想像しないではおられないのだよ。キリストが彼らのまえにあらわれ、両手をさしのベて、『どうしておまえたちは神を忘れることができたのだ?』と言うのだよ。するとすベての目からおおいがとれたようになって、はっと迷いからさめて、最後の新しい復活の偉大な感激の讃歌が高らかにひびきわたる……」 [17]

 

ヴェルシーロフはロシアの1840年代の知識人であり、意識的には理神論者、すなわち神を創造主としては肯定するが、神の人格神的性質や奇跡や啓示の存在を否定する説の信奉者であるが、結局は無意識的には(「ところがおかしなことに」)、その幻想は、『罪と罰』のマルメラードフの終末幻想同様、キリストによる最後の審判の場面になってしまうというのである。ドストエフスキーはヴェルシーロフの口を借りて、キリストを中心とした神の国という形で、ヨーロッパとロシアを含む全人類の平和と統一のヴィジョンを語ろうとしているのであるが、ただ、その統一の原理がロシア民衆の中に潜むヨーロッパにはない純ロシア的なキリストの姿であるとするならば、それは自己矛盾であり、汎スラブ的な考えに止まるほかないであろう。

 ドストエフスキーが愛していたのはキリストという人間であって、キリスト教ではない。それは、1854年二月下旬にオムスク監獄からN・D フォンヴィージン夫人に宛てた手紙の中に、明確に書かれている。

 

「わたしはいろいろの人から聞きましたがN・D、あなたはたいへん宗教心がお深いそうですね。それは、あなたが宗教的だからではなく、わたし自身が、それを体験し、それを痛感したから、あえて申し上げますが、そうした 瞬間には『枯れかかった葉』のように、信仰を渴望し、かつそれを見いだすものです。それはつまり、不幸の中にこそ真理が顕われるからです、わたしは自分のことを申しますが、 わたしは世紀の子です、今日まで、いや、それどころか、棺を蔽われるまで、不信と懐疑の子です。この信仰に対する渴望は、わたしにとってどれだけの恐ろしい苦悶に値したか、また現に値しているか、わからないほどです。その渴望は、わたしの内部に反対の論証が培せば増すほど、いよいよ魂の中に根を張るのです。とはいえ、神様は時として、完全に平安な瞬間を授けてくださいます。そういう時、わたしは自分でも愛しますし、人にも愛されているのを発見します。つまり、そういう時、わたしは自分の内部に信仰のシンボルを築き上げるのですが、そこではいっさいのものがわたしにとって明瞭かつ神聖なのです。このシンボルはきわめて簡単であって、すなわち次のとおりです。キリストより以上に美しく、深く、同情のある、理性的な、雄々しい、完璧なものは、何ひとつないということです。単に、ないばかりでなく、あり得ない、とこう自分で自分に、烈しい愛をもって断言しています。のみならず、もしだれかがわたしに向かって、キリストは真理の外にあることを証明し、また実際に真理がキリストの外にあったとしても、わたしはむしろ真理よりもキリストとともにあることを望むでしよう。」[18]

 

これは、またしても親鸞が法然について言ったことと一致する。

 

親鸞におきては、ただ”念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし"とよきひとのおほせをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏はまことに浄土にむまるるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、惣じてもて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。[19]

 

最後に、『白痴』のなかで、ナスターシャが思い描くキリストのイメージを挙げておくことにしよう。ナスターシャは恋敵であるアグラーヤに宛てた手紙の中で、キリストを次のように描いている。

 

「昨日あなたさまとお会いした後、私は帰宅してから一枚の絵を思いつきました。一般に画家たちはキリストを描くとき、福音書の物語に合わせて描きます。でも私ならそうはしません。私ならば、キリストが一人きりのところを描くでしょう……弟子たちだって、時にはキリストを一人にしてあげたでしょうからね。キリストのそばには、小さな子供を一人だけ、残しておきたいと思います。子供はキリストのそばで遊びながら、おそらく幼い言葉で何かのお話を語り聞かせていたのでしよう。キリストはそれに耳を傾けていましたが、いまはもう自分の物思いにふけっています。そしてその片方の手だけが、無意識に、まるで忘れもののように、子供の金髪の頭の上に残されているのです。キリストははるか彼方の地平線を見つめていて、その眼差しには全世界のように大きな思想が憩っていますが、表情は悲しげです。子供も黙り込んで、キリストの膝に肘をつき、小さな片手でほっぺを支えながら、頭を上げて、子供たちが時おり見せるもの思わしげな顔つきで、じっとキリストを見つめています。太陽が沈んでいく……というのが私の思いついた絵です!」[20]

 

この絵は、『白痴』の最後の場面で、ムイシュキンが自分も「白痴」に戻りながら、ナスターシャを斬殺したロゴージンの頭を抱えて慰めている場面と、よく似た描写であるということに注意すべきであろう。

 

おわりに

以上、ドストエフスキーがロシア人のキリスト教の本質として述べていると思われる個所を摘記してきたわけであるが、これですべてを尽くしたというわけでは、無論ない。例えばドストエフスキーの作品のあちこちに出てくる「聖痴愚

(ユロージヴィ)」という重要な概念については今回は論じていない。また、『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老の思想についても、一言言及したのみである。しかし、いずれはこの作品についても「カラマーゾフ力」とは何かという問題との関係で私自身の見解を述べることになるだろうと考えている。

 

 

 

 


[1] [ドストエフスキー(望月哲男訳), 2010:2:95](一部付加)

[2] [大貫隆他, 2002]「フォイエルバッハ」の項。

[3] [ドストエフスキー(望月哲男訳), 2010:2:92-93]

[4] [ドストエフスキー(望月哲男訳), 2010:2:95]

[5] [ドストエフスキー, 1979:49]

[6] [ドストエフスキー, 1979:51]

[7] [ドストエフスキー(工藤精一郎訳), 『ドストエフスキー全集』7, 1978:28-9]

[8] [ドストエフスキー(望月哲男訳), 2010:94]

[9] [ドストエフスキー, 1979:51-52]

[10] [ドストエフスキー, 1979:54]

[11] [ドストエフスキー(工藤精一郎訳), 「死の家の記録」, 1968:44]

[12] [ドストエフスキー, 1979:25-26]

[13] [ドストエフスキー, 1979:26]

[14] (原注)このくだりは、社会主義革命のために二百万の犠牲者が必要だというドィツ人

社会主義者の見解に関する、ゲルツェン『過去と思索』第五部三十七章の記述を踏まえていると思われる。

[15] (原注)『マタイによる福音書』第七章十六節の偽預言者に関する記述「その実によりて彼らを知るベし」を受けている。

[16] [ドストエフスキー(望月哲男訳), 2010:3:258-262)]

[17] [ドストエフスキー(工藤精一郎訳), 1968:572]

[18] [ドストエフスキー(米川正夫訳), 1970:155]

[19] [佐藤正英, 1994:91]

[20] [ドストエフスキー(望月哲男訳), 2010:3:72-73]

 

 

引用・参考文献

 

L.グロスマン. (1966). 『ドストエフスキイ』. 筑摩書房.

R・ヒングリー(川端香男里訳). (1984). 『19世紀ロシアの作家と社会』. 中公文庫 .

ドストエフスキー(米川正夫訳)(1970), 『ドストエフスキー全集』16  河出書房新社

ドストエフスキー. (1979). 『ドストエフスキー全集』17 『作家の日記』上. 新潮社.

ドストエフスキー(工藤精一郎訳). (1968). 「死の家の記録」. 著: ドストエフスキー(工藤精一郎訳), 『ドストエフスキー』Ⅱ(新潮世界文学). 新潮社.

ドストエフスキー(工藤精一郎訳). (1968). 『未成年』. 新潮社(新潮世界文学).

ドストエフスキー(工藤精一郎訳). (1978). 『ドストエフスキー全集』7 . 新潮社.

ドストエフスキー(望月哲男訳). (2010). 『白痴』. 河出文庫.

大貫隆他編. (2002). 『岩波キリスト教辞典』. 岩波書店.

佐藤正英. (1994). 『新駐歎異抄』. 朝日文庫.