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静かな日々の階段を

3人の子供、天パの夫、ハムスターと生活している

去年亡くなった私の祖母のことである。

94歳だった。

祖母は晩年、駄菓子屋をしていた。

亡くなる4年前まで店に立ち続け、子供達からは「駄菓子屋のおばちゃん」と呼ばれていた。

私の子供の時すでに60代だったのでこどもながらに(おばあちゃんでは?)とおもっていた。

祖母がおばあちゃんはやめろとでも言ったのか呼びやすかったのか、真相は謎のまま。


店は小学校の近くで放課後には子供たちがたくさん来ており少年野球のお兄ちゃんや高学年のお姉さん達や友達が来てくれて店は繁盛しておりにぎやかで楽しかった。

店の裏が家だったので少年野球に行く友達がちょっと遊びによってくれたり、一緒にスーファミしたり。

ふいに好きな男の子が現れては一旦隠れて髪を整えたり。

硬派な女子たちが来たかと思えば祖父母がいないうちに「まけてよ〜」と値切られたり。それだけ少し嫌だった…。


祖父が健在なときは100円を「100万円!」という鉄板ギャグをかましていたが苦笑失笑が多かったため恥ずかしかった記憶もある。


祖父母とは私が小学5年生まで一緒に暮らしていた。

といっても引越し先は町内。1キロも離れていないところだ。


私はよく祖父母宅遊びに行った。私の元住んでいた場所でもあるので愛着もある。祖母とは一緒にスーパーで買いものしたり図書館に行ったり。一緒にご飯を食べて帰ると喜んでくれた。

手羽先をパリっと塩焼きにしてくれたのがおいしかった。料理は火加減、塩が結局一番美味しいと知ったし今も肝に銘じている。


70代になり祖父が病気になった。

透析に通い、すっかりやせてしまった。会いに行けば祖父は「じいちゃんはもう身体がしまえた(おしまいだ)」と言っていた。

祖父は奔放なところがあり、大好きな甘いものとお酒はたくさんとっていたし、祖母がとめると怒っていたので内心(仕方ないよな…健康に気を使わないとこうなるんだな…)と教訓にした。

しかも晩年は昔好きだったであろう女性に一度は会ってみたいと言う始末。

祖母も介護のしがいがないとこぼしていた。なんだかさみしい。

祖父は悪い人ではないとは思うが掴めないところが多い人だった…祖父は私が二十歳のときに亡くなった。


祖母ひとり暮らし開始。

寂しさが増すかと思えば、戦時中から勉強のため他の家に居候したり、結婚したり人に気を使って生活していたが一人は初めて。自分の城を手に入れたようだと言っていた。そういうものなのかと目からウロコ。介護も大変だったんだろうな。


お店に子供達がくるし、知り合いや友達もいたようなので活き活きとはしていたし、一人暮らしお店もやっているで全然ボケない。

祖母はお店に子供達が来てくれるおかげで元気をもらえるし頭の体操になるよ、とよく言っていた。


内職もしていた。私がちょっと手伝おうもんなら、かなり多めにお小遣いをくれていた。いいのに…。

何か人にお土産をあげるのが好きで、来客にはよく手土産を渡してた。

小さな畑も持っていたので大根や人参、夏にはきゅうりやナス、スイカを作っては分けてくれた。

今思うと本当にパワフルばあちゃん。


80代になると免許返納し、祖母はバス生活になった。入れ代わりで私が免許をとったので買物に連れて行くとそれはそれは喜んでくれた。

「目的地までヒューッと行けるのがいいね。」

ニコニコしていた。あと、戦後この当たりは道がなくて田んぼだったとか、父親とここに出掛けたとか昔のことも教えてくれた。田舎だけどそれでもかなり栄えたらしい。そう思うと街も違って見える。私の知らない町の面影が見えてくるようだ。


祖母は回転寿司をくるくる寿司と言い気に入ってよく一緒に行っていた。

言い方がかわいい。とにかくよくニコニコしていた。

お会計も食い気味に出そうとしてもなかなか払わせてくれなかった。こういうときは素早いのだ。


そして私は25歳のときに結婚。

同じに市内に住んでいたが仕事と家事に追われ遊びに行く回数は減り、1年後子供も生まれてなかなか行けなくなったが、祖母はバスを乗り継いで会いに来てくれた。

なんと!これには驚いた。当時祖母は85 歳。一人でバスで来るなんて。すごい。

アパートで心細く育児をしていたのでとてもうれしかった。私のこともひ孫もとてもかわいがってくれた。


子供が少し成長したら祖母宅にちょくちょく行くように。子供も駄菓子屋とても気に入り楽しそうだった。

お客で来る子どもたちもかわいい。

私もお母さん世代になったんだな〜と実感した。祖母も幸せそうだった。

子ども達に孫とひ孫を紹介しまくっていた。照れる孫とひ孫。


しかしなかなか平凡な日々は続かないもので、祖母が骨折したと実家から連絡がきた。しばらく入院、リハビリをし、半年ほどかけて手押し車があれば歩けるようになったが一人暮らしは難しくなった。


アパートタイプの老人ホームへ入居することに。一人ずつ個室で食事は食堂でとるが、他の掃除や洗濯など部屋周りの自分ができることはする。なにかあれば職員さんがすぐ駆けつけてくれる。


確かにこちらが家族は安心だ。

だが祖母は家に帰れないのが寂しいと言っていた。自分が生まれ育った家がいいと。

慣れないホームに戸惑っていた。

ホームの費用も気にしていた。祖母の4人いる子供たちが出し合っていたのを申し訳ないと何度も言っていた。

子供には言いにくいことを孫の私にはポツリポツリと話してくれた。


祖母は「○○ちゃん(著者)は、私のお姉さんのように思っているよ」

と思いがけないことを言われて驚いた。

いつも心配して遊びに来てくれるから、顔を見るとほっとするというような事を言っていた。


そんなふうに思われているなんてとても意外だった。58才歳が離れている祖母。年長者だって誰かに甘えたり頼りにしたいんだな、と思った。


ホームにも極力遊びに行っていた。

でもコロナが始まった。これが本当にタイミングがよくなかった。ホームにいる祖母にはほとんど会えなくなってしまった。

最初は玄関先や庭では良かったが感染拡大して厳しくなってしまった。


最後の一年は会っていない。

去年の年賀状の隅に「病院の再検査に行かなくちゃ」と書いてあった。

そこから数日後、入院。そして1ヶ月後、亡くなった。はやすぎる。


お見舞いに行けなかった。

祖母はきっと寂しかった。面会はできなかったので1ヶ月、親族や友達にも会えず、きっと寂しくて生きる気力も薄れてしまったんだ。会えたら。

長生きできなくともせめて、寂しくないようにしたかった。


病院から危篤の連絡があっても一人しか会いに行けなかった。父が行った。


以前、入院していた祖母に会いに行ったときとても喜んでくれた。わかりやすいのだ。うれしいとパッと周りが華やぐ人だから。


私の子どもたちもあわせたかった。

会うたびに成長を心から喜んでくれた。


大好きな帰る場所がひとつ無くなった。

無償の愛をくれる人がひとりいなくなってしまった。

大往生だろうがなんだろうが、いつだって大切な人の死はとても寂しい。

色々悔やまれる。


昨日夢に祖母がでてきた。亡くなってから初めてだ。どんな夢かは覚えてない。

ただ、祖母がいたことを書き残してみたくなった。