(2021年5月18日)

 

 (エミリー・ブロンテが「嵐が丘」を着想したといわれるハワースの廃墟)

 

 改めて、「嵐が丘」と「ジェーン・エア」を通して、これらの作品を生んだ

エミリー・ブロンテとシャーロット・ブロンテを見つめてみました。

 

 まず、彼女たちの父親ですが、アイルランド出身で、ケンブリッジ大学を卒業し、

牧師になりました。そして、ブロンテ家には5人の女の子と1人の男の子が生まれま

した。

 1816年に3女としてシャーロット、17年に長男のブランウェル、18年に4女

エミリー、20年に末っ子の5女アンが誕生しました。

 

 しかしながら、食糧難と天然痘やチフスが流行る劣悪の衛生状態の生活環境の中で、

最初の長女と次女の2人の女の子は、10歳前後で結核により亡くなっています。

 当時の英国の地方では、平均寿命が27歳程度という厳しい生活環境でした。

 

  従って、実際の彼女たちの暮らしの世界は、ごく限られた狭い範囲でした。

 

 子供たちにとって、ハワースの田舎での生活が主でしたが、シャーロットと

エミリーは、それぞれ20歳、18歳のころ、叔母からの支援で、教師を目指し、

ベルギー・ブリュセルの寄宿学校に入りました。しかし、資金が続かず、1年

足らずで戻っています。

 

 では、このような環境で育ったブロンテ姉妹が、如何にあのような広大で勝つ

数奇な運命を描くことが出来たのか、また、どのような内なる世界に生きていた

のか、長い間不思議に想いつつ、いつの間にか、その疑問は心の中に眠っていま

した。

 

 つい最近、女優の吉行和子さんの幼少時代の話を読みました。その中で、

(吉行さんは、作家の吉行淳之介の妹で、更に、お二人の母親は、NHKの連続

テレビ小説「あぐり」のモデルとなった人です)。

 

「自分は小学校の頃は、殆ど口をきかない子供で、学校で発言しようとすると気絶し

てしまうほどでした。でも人前では話せない子でしたが、いつも家では一人、紙で

人形を作って、同級生や大好きな本の登場人物の名前を付けて、物語を作って遊んで

いました。そしてそんな時、私は頭の中で、全員のセリフを話していました。」と

ありました。

 

 その記事を読んで、ハッと思い出しました。ブロンテ姉妹は、ハワースの田舎で、

限られた小さな世界を生きていましたが、質素ながらも仲良く多感な時を過ごし、

想像力を膨らませていきました。それぞれに架空の国を思い描いたり、詩を書いたり、

更に、父親が兄のブランウェルに買い与えた木製の兵隊の人形で遊びながら、人形を

主人公とした物語を創作し、子供ながらにミニチュア本を作ったりしていたというこ

とです。

 

 そのようにして、姉妹たちは、それぞれの心の中に、自分だけの宇宙を描いていき

ました。

 

 今回は、エミリー・ブロンテについて見てみます。

 

エミリーは、その人生の大半をハワースで過ごしました。

 

 離れたのは、6歳と17歳のとき、計9か月間を寄宿学校で生活しますが、衛生状態

が悪く、短期間で家に戻ってしまいます。

 次に、24歳から25歳にかけて、姉のシャーロットと共に、ブリュッセルの寄宿

学校に入りましたが、支援していた叔母がなくなり、9か月間のみの滞在でした。

 

 家族以外とは、あまり他人と口をきかず、物静かで内気な性格でした。一人でいる

ことが多く、家族以外には親しい友達ももたず、恋愛を経験することも無かったと

言われています。

 感情は表に出さず、物静かで家庭的な性格で、頑固な気質もありましたが、一方で、

犬や様々な動物の世話をしたりする優しい気質もありました。

 

 孤独に耐え抜く強さもあった反面、社交性には乏しい気質ゆえ、折角得た音楽教師

の職も、ホームシックになり、6か月しか続きませんでした。

 

 エミリー・ブロンテは、多くの時間を厳しいハワースの自然の生活の中で過ごし、

彼女の性格や人間性を育み、「孤独」「愛と死」「自然の厳しさと絶対性」「人間の

魂」等の「嵐が丘」の世界を形成していったのではと思いました。

 

 ここで、「嵐が丘」が生まれるまでを振り返ると、1845年に3姉妹は共同で詩集を

作り、ロンドンの出版社に送り、刊行します。この時、シャーロット29歳、エミリー

27歳、アン25歳でした。

 

 なお、この時代は、女性の社会的活動の範囲は極めて狭く、女性が執筆し刊行する

のは極めて困難な時代であったため、その詩集は3人の男性名で発表されています。

但し、イニシアルでは本名と同じでした。

  残念ながら、その詩集は、僅か2部しか売れませんでした。

 

 気落ちしながらも、3姉妹は小説の執筆に取り組みます。31歳のシャーロットは

「教授」という作品を書き、29歳のエミリーは「嵐が丘」を、27歳のアンは「アグ

ネス・グレイ」を書き上げ、それぞれ男性名で出版社に送ります。

 (なお、シャーロットが「ジェーン・エア」を完成させるのは、この2年後です)

 

 そして、1847年12月、「嵐が丘」が出版されました。しかしながら、世に発表さ

れた「嵐が丘」の評価は極めて厳しいもので、登場人物が粗野で、非道徳的と酷評さ

れてしまいます。

 

 エミリーは、失意のまま、ハワースで日々を過ごしますが、翌年、兄ブランウェル

の結核の看病をしながら、自分も結核に罹り、1848年12月 30歳でこの世を去って

しまいます。

 

 本名を明かすこともなく、評価も得られないまま、彼女の人生の幕は下りました。

 アンもまた、後を追うように、29歳で短かい人生を閉じたのでした。

 

それは、「嵐が丘」の出版から、僅か1年でした。

 

 彼女の死から2年後、姉のシャーロットが、「嵐が丘」の作者は、エミリーである

ことを明かし、また、女性への価値観の高まりと共に、次第に時代が作品の価値を

認め始めましたが、真に評価されるのは20世紀になってからでした。

 

 今日では、「嵐が丘」は不朽の名作と評され、イギリスでは、「リア王」「白鯨」

と並び、英文学の三大悲劇の一つに挙げられています。

 

 「嵐が丘」の物語に触れると、人間の深い愛情と、その裏返しとなる強い憎悪を

描いた小説といえます。認められたい気持ちの裏返しである劣等感と強い愛情。

 

 激しい嫉妬の炎は、愛情から憎しみへと形を変え、ヒースクリフを残酷な復讐の

鬼へと変貌させます。

 

 このように激情型の気質と一方で冷静な復讐劇を演じる冷徹さを兼ね備えたヒース

クリフと天真爛漫でお嬢様育ちのキャサリンを軸に、物語は展開していきます。

 

 ヒースクリフは、2代にも亘る壮絶な復讐劇を展開し、一方、キャサリンは、「彼

(ヒースクリフ)は、私以上に私なの」と語り、死してその魂は幽霊になって、荒

野を彷徨うのです。その物語の壮絶さ、激しさが読む人を圧倒します。

 

「嵐が丘」というタイトル名のバイオリン曲を作曲した

ピアニストの川井郁子さんも、子供のころ、「ジェーン・エア」を愛読したものの、

「嵐が丘」にはその激しさの故に、拒否反応があったと語っています。

 

 この二人の人間性は、心理学的に「共依存」の気質を備えています。

 即ち、愛する人との関係に依存しすぎて、心が離れられなくなり、両方ともに傷

ついていく、あるいは互いに傷つけあう運命的な関係です。

 

  ヒースクリフの深い愛情は、炎の憎悪に代わり、復讐の権化となっていく一方、

子供のころから、偏見なく、ヒースクリフを守り、愛したキャシーは、亡くなり、

亡霊となって、ヒースクリフの魂を奪おうとします。

 

  この幻想的、超自然的な物語の世界は、実際のWuthering Heightsに佇むと

理解できるような気がしました。

 

 しかしながら、今日私のなかに、もう一つの解釈が生まれたので、お話しします。

 

 小説の中で、キャサリンが家政婦のネリーに語ります。

「ヒースクリフへの愛は地底の巌のように永遠なんです」

 

「彼(ヒースクリフ)は、私以上に私なの。どんなもので作られていたって、私たち

の魂は同じよ」

 この文章の解釈で私は、ヒースクリフとキャサリンは、愛する男女ではなく、実

は、「一対なのでは」と思うようになりました。二人は、別人格でありながら、

その魂は不可分であり、互いに傷つけあう悲劇を生んでいきます。

 

 それゆえ、亡くなって魂となって20年もムーアの地を彷徨っていたにも関わらず、

ヒースクリフが亡くなり、互いの魂が一つに戻ることにより、永遠の安らぎを得た

のではと思いました。

 

 そのように感じる理由は、エミリーの生涯を知るにつけ、「嵐が丘」とは全て、

彼女の心の中の世界の投影ではと思えるからです。

 

 更には、「嵐が丘」は彼女が生み出した個々の登場人物というより、むしろ、

二人共が、エミリーそのものの分身であったのではというひらめきが浮かびました。

 

 人形遊びの日々、全ての登場人物のキャラは、彼女の分身として、自身を投影して

いたのではと、「嵐が丘」に遊ぶエミリーの姿を思い描きながら、想像を膨らませ

たのでした。

                                  以  上

 

           (姉 シャーロットが描いたとされるエミリー・ブロンテの横顔)