あいをことばであらわすなんて不可能でかまわない


それでもことばにしてみようとするのがステキなのも自然だ。




この世界に無数のうたがうまれつづけてゆく



あいのないうたなんてうまれるのだろうか?




いのちがやどったそのとき


そこにあいがないことなんてあるのだろうか?




うまれるとは、動いたことだ。




その動きを「つながる」という言葉であらわしてもいいのかもしれない。



あのせかいからこのせかいへ「つながる」


ちがういのちといのちが「つながる」




それは「宿る」という動きでもあるかもしれない。





今、目に見えているすべてと


今は目に見えないすべては


ひとつ。





いのちがやどるとは「あいされている」


えらばれている。




いのちがやどるとは


「あいしていいんだよ」という笑顔がそこにある。







あいしているから、えらぶ。





おそれがあいなんだ。おそれすら、あい。



おそれがあるなら、そこにはあいが潜んでいる。


潜んでいるから こわいと感じるだけ。




おそれを感じたら、

ついでに


感じてみればいい。



いろあいは一色でなくていい。





グラデーションでいい。




おそれを消そうとしなくていい。



ただ、それが


ほんとうに


一色だけなのか…


それだけしかないのか…




それだけを


もう一度


自分のあいでみつめてみる。





あのうたを思い出す。


すべてのうたを。すべてのうたに ある ものを。




すべてのものにあるものを。



すべてがあっていいんだと。




あのうたを思い出した。




すべてがもうあったと。




こわがらなくていいんだよ。


だから、


こわがってもいいんだよ。




こわがることをこわがらなくていい。


だから、こわがってもだいじょうぶ。






ちゃんと


あい



あるから。





いのちがめぐるものがたり


すべてのいのちがめぐっている。




だいじょうぶ。



にじのようなそれはそこにある。