皆さまこんにちは、新(アラタ)ですうさぎ

 

おぉ、今度は2ヶ月ほどで

戻って来られましたおねがい

(いや、早くないって)

 

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タイトルに『続編』と入りました。

 

いったい何の『続編』なのか?

 

ざっと4年前、

2020年の夏の投稿です真顔キラキラ

 

 

 

その時のお話は過去ブログ(全8話)を

ご覧戴けばわかるのですが、

 

ここからのお話は、

 

その当時のちっちゃいちっちゃい

自分を思い出しての考察的なものに

なっておりますチューリップオレンジ

 

もう少し平たく申しますと、

 

 

「大人になった今、

自分の生い立ちを冷静に

振り返って見えて

来ることって

なんだろう・・・」

 

 

ということですねキョロキョロ

 

 

子どもの頃の話ですから

記憶が正確かどうか?と言ったら

ちょっと怪しい部分もあるのでしょう。

 

ただ、

強烈に記憶として焼き付いていることって

実はそこそこあったな、と。

 

それだけたぶん過酷だったし

孤独だったし

 

その時焼き付いた感情や

受け取った想いが

今の自分を創っているとしたら?

 

 

何かの参考になるんじゃないか?

 

 

・・・いやいや、決して

それは過去に固執したいという

ことじゃなくね。

 

 

両親が二人とも他界して

そう遠くない時期に

実家も手放そうとしている今、

 

当時を冷静に振り返り

 

 

「おい待て、

そういえばあれ、

おかしいやろ」

 

 

・・・な、気づきがたくさん浮上して

来たのでありましたぶー

 

それを1つずつ紐解くことで

もしや、読みに来てくださっている

皆さまの心にも何か残れば

いいんだけどな~。

 

 

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チューリップオレンジ過去記事を遡るのが

面倒臭い方のためにチューリップオレンジ

 

 

私が自分の幼少期の記憶を

うんとこさ振り返って

気づいた事実をひと言に

まとめますと

 

両親をはじめ

ほぼ全員の精神状態が

まともではない

 

 

ショボーンは、根が臆病なゆえに

虚勢を張らないと生きて行けない

結果、世の中の全員が自分のことを

尊敬していると信じるまでになった

(最強の思い込みで精神力を保つ)

 

ショボーンは、自分の意見や立場を

守ることができない状況から

育児放棄に向かう

(自分の実家だから逃げ場がない)

 

ショボーンは長男として大事にされすぎて

自分より弱い存在(妹=私)を

イビることで自分の尊厳を守る手法に出る

(外面は非常によい)

 

ショボーン最も私の育児に関わったとされる

祖母が、実は祖父の後妻で血縁が

一滴もなく、過去に母(継子)いじめに

終始していたことを後で知る

(確かに、鬼のような人だったかも)

 

おねがい私が10歳の頃に他界した祖父

(母の実の父親)

深い思い出こそ少ないが、末弟なのに

働いて上の兄弟たちを世話したという

逸話が残っている。気づいた頃にはもう

自宅で寝たきり。闘病の末息を引き取る

→霊的には私との繋がりが強いらしく

何度も命を救われた記憶がある

 

 

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そうなのです。

 

我が家には

「そんなの聴かされてなかった」系

お話がいろいろとあったんですね。

 

 

その、

祖母が本当の祖母じゃないとか、

 

本当の祖母の1枚しかなかった

生前の写真を、

意地悪で祖母(後)が燃やしてしまったとか、

 

父方の両親は死別で2回変わってるとか、

(なにそれ!!!!!)

 

母にはたくさん兄弟がいて

母以外は3~18歳までに皆

亡くなってしまったとか・・・

 

それが”時代”というヤツなんでしょうか。

 

 

もともと我が家は父が婿養子に

やって来た立場というのも

実は中学生頃まで知らなかったんです。

 

 

なんじゃこのオヤジ

婿養子のクセに一番

デカい面しとったんかい

 

 

そりゃ、衝撃であるのと同時に

恐怖の存在として

イメージがどんどん増強されて

行くことになりましたえーん

 

 

世の中で起きる良いことは

自分のおかげ

悪いことは人のせい。

 

そんなヤツ、おる!?と

思ったら、

一番身近にいたというガーン

 

 

なにせ、

重鎮的な存在だった祖父が

もう他界した後でしたから、

 

誰も止める人がいない・・・

 

 

中2の頃、

大好きな野球が転じて

町内のママさんソフトボールの

監督&コーチを父がすることに

なったのですが、

 

走塁の見本を見せようと

張り切りすぎて

ひどい捻挫になってしまって

 

大事をとって入院したものの

病院で院長と大げんかになり

勝手に退院→祖母(後)と

また些細なことで大げんか・・・

 

夜の自宅に怒号と

足を引きずりながら動く父の

ドスン!ドスン!歩き、

 

どういうタイミングだったか、

祖母(後)が父を平手でぶん殴る

バチーーーーーン!!!という

大きな音・・・

 

 

 

その後、祖母(後)が

近所に住む自分の姪(関係ないやん!)を

電話で呼び出して仲裁してもらうという

訳分からない事件もありましたっけ。

 

 

まぁ、とにかく

強情な上にみんな血の気が多く、

 

夜の静かな田舎町の、

どのあたりまで聞えていた

ことだろう・・・笑い泣き

 

 

大人たちの感情剥き出しの

醜い争いを見せられた私は、

 

(あぁ、どうやったらこの家を

出られるんだろうか)

(早く大人になりたいなぁ)

 

家族愛だ、絆だは心の中に

欠片の少しも育たず

 

どんどん孤独になって行くのでしたぼけー汗

 

 

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この続きは

続編・ひとりぼっちの”小さい私へ”②

 

更新をおまちくださいウインクチューリップ黄

皆さまこんにちは、新(アラタ)ですうさぎ

 

なんやかんや、

日数が開いてしまって申し訳な~い・・・

 

 

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「ご本人は検査日含めて

5日間はお外に出られません」

 

こうクリニックからクギを刺されて

居る私の懸念はただ1つ。

 

 

母の葬儀には出られるのだろうか?

 

 

 

まぁこちらは、

葬儀社の担当さんとの交渉で

ギリギリ18日の葬儀に決まり

(それ以上は延長料金がかかる)

ホッとしたのでしたぐすん

 

 

 

「葬儀」とは言いましても、

両親には親戚が少なく、

 

そればかりかこの数年の間に

わずかに残っていた父方の親戚とも

疎遠になってしまっていました。

 

なので、

 

昨年の父の時にも

 

私・主人・長男と、私の兄の4人だけで

斎場での「お別れ式」という

ごく簡略な見送りをしたのでした。

 

 

恐らく葬儀社によって違うでしょうが、

 

私の地元の斎場というのは

場所はずっと同じところなんですけど、

 

 

 

父のお別れ式の前に訪れたのは

祖母(母の継母)のお葬式の時で、

西暦にしますと2003年の2月でしたから

 

にゃんともう20年も経っています。

 

 

例えばJ△葬祭だとか、

〇〇葬儀社だとかの、

複数の場所でそれぞれ葬儀を執り行うと

火葬はこの斎場にあちこちから順に

集まってくることになりますけれど、

 

そうした「お葬式」を、

病院から一度もご遺体を

自宅に運ばないで、

斎場でそのまま・・・

というスタイルの葬儀社が

 

斎場の事実上の経営権を

持っている?

もしくは入札で参入している?

(斎場は一応、自治体の管理だから)

 

そんな感じなのかしら。

 

 

昨今の事情で、

独居の方が多くなったために

 

例えば事故であれ、病気での入院であれ

亡くなっても自宅にご遺体を返せない、

見る家族がいない、

安置する場所もない・・・・

 

こんなお宅が多いとのことで、

大きな何十人も参列者が並ぶお葬式から

「家族葬」のような小さな葬儀、

 

そして私たちが選択した

「病院」→「葬儀社の安置所」→「斎場」

という流れの供養は決して珍しくないとの

ことでした。

 

 

 

変な話、「斎場」って

子どもの頃にはとにかく暗くて陰気で

最後は「お骨を拾う」というアクションで

トラウマになりそうなイメージだったのですが

 

20年を経て

駐車場の配置からエントランス、

お別れの部屋(火葬室)、

待合室まで、

 

まるで

どこかの高級ホテルのよう!

 

 

なんですよねガーンキラキラ

 

 

 

そもそも、斎場に女性のスタッフがいるなんて

昔なら考えられなかったことですし。

 

今回は男性でしたが、

 

父の時はスーツ姿の40代くらいの女性が

出迎えから式の段取り、

お棺を炉に挿入する作業、

お骨を整理しながら説明する作業、

参列者の見送りまで

執り行ってくださって、

 

 

正直面食らった・・・

どんな志(こころざし)があったら

人の「死」に間近で直面する仕事に

就いていられるのかなと。

 

 

 

お骨が上がるのを待っている間も

 

温かいお茶が振る舞われ

意外と時間も短くて、

 

荼毘に付された母と対面した時にも

 

何だかそこだけ時が止まったようでした。

 

 

 

これは私が過去見送った家族(祖父・祖母・父)の

時も同じなんですけど、

 

 

(人間って、最後はお骨になってこんな

小さな壷に収まってしまうんだな)

 

・・・などという、

とりとめもない感想しか出て来ないんですぐすん

 

 

 

(実感がない)

 

というのとは少し違いまして、

目の前で起きていることへの

強烈な感情が湧いてこない。

 

 

だからいい、のかも知れないし、

 

”そんなの、家族としてどうなのよ?”

なのかも知れません。

 

 

 

 

ただただ冷静になって今思うことは、

 

 

18日にお別れ式が決まったこと。

本当はその日まで出掛けてはいけない

はずだったものを、

 

熱は14日(母が亡くなった日)までに

ウソのように下がり、

何もトラブルのない状態で

 

母を見送ることが出来たという不思議。

 

 

 

いえ、奇跡。

 

 

思い出してください。

 

 

 

コロナって、始めは罹患したら

亡くなることもある感染症でしたよね?

 

しかも今回の私はインフルB型も併発。

 

場合によっては、

母と一緒に私の棺が並んだかも

知れなかったのです。

 

 

2022年6月から2023年12月までで

私の父も母も両方旅立ってしまったけど

 

私には何かが受け継がれた。

・・・そういうことなんでしょう。

 

 

代々続くお墓のこと、

住民票に誰も居なくなった実家のこと。

 

それ以外にも、

残された私がやるべきことは

まだまだあるんだと思いますし、

 

ここから見つけて行くものも

きっとあるのでしょう真顔キラキラ

 

 

 

 

1つだけ言えることは、

 

長い闘いだった約10年間の介護に

終止符が打たれたこと。

 

 

私と両親の全ての確執がこれで

浄化されたわけではありませんが

 

1つずつ自分の想いを昇華しながら

私自身も残り少ない余生を

大切に生きて行くべきだと

決意を新たにしたところですほっこりクローバー

 

 

 

ここまで①~④に渡りつたない文章を

お読みくださって本当に

ありがとうございました!

 

 

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少しまた間が空くと思いますが

次回は、

【続編・ひとりぼっちの”小さい私へ”】

というタイトルで

私自身のお話をしたいと思います真顔キラキラ

 

お楽しみにチューリップピンク

 

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皆さまこんにちは、新(アラタ)ですうさぎ

 

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思いがけず

コロナとインフルエンザB型の

W感染となってしまった私。

 

2023年12月13日といえば『新月』でしたよね。

 

朝には新月の願い事を書けるほど

まだまだ元気でしたけれど、

 

午後になるにつれ何となくおかしくなり

 

夕方発熱してビックリ・・・

急遽受診した病院の検査で感染が

発覚したわけですが、

 

その週の後半は奇跡的に予定を入れておらず

取りあえずゆっくり休むことは出来る!

 

…そう思っていましたキョロキョロ

 

 

恐らく、その夜〜翌日の1日が最も

症状がキツかったのかなと思います。

 

 

②でもお話しましたが、

通常のインフルエンザのような

寒気や節々の痛みはないし、

 

この時には咳らしい咳もないし、

 

水分補給して寝ていれば何とかなる

感じ。

 

ただ、その夜は腰に痛みが出て来て

何度も寝返りをうち、

あまり眠れなかったと記憶しています。

 

ところがです。

 

 

翌14日朝5時半頃、

突然枕元のスマホが鳴り出しました!

 

 

「もしもし?T病院ですが、

お母様の容態が

急変致しまして!これからこちらに

来られませんか?」

 

 

えぇぇぇぇ~~~!?ガーンガーンガーン

 

 

これが普通の風邪ならば

多少の体調不良も押して

行くことができたと思うのですが、

 

クリニックから

「ご本人は検査日含めて

5日間はお外に出られません」

 

・・・こう言われてしまっていることを

告げると、

 

 

「お兄様に電話しても大丈夫でしょうか?」

との問い。

 

確かに、この時間ならば出勤前のはず。

 

「すみませんが、お願いします」

 

「わかりました!ではお兄様の方に連絡

させていただきます!」

 

 

その声を聴いてスマホを置いたのですが、

もう何となく、

何が起きようとしているのか

私には察しが付いたのでした。

 

 

次に私のスマホが鳴ったのは

そこからわずか30分後。

兄からでした。

 

 

「今、T病院におる」

「6時1分、心肺停止確認だって」

 

 

あぁ・・・・・・

 

 

 

 

 

 

とうとうこの時が来てしまいました。

 

 

1年半前の2022年6月。

既に倒れて、硬直が始まっていた父を

発見した時のことを思い出し、

 

 

私は、両親を2人共看取ることは

出来なかったんですね。

 

 

この10年間、

「そっちに任せるわ」という兄の言葉に

1つも異論を唱えず

 

父、母、両方の生活のサポートをし、

介護認定の手続きや

病院通い、種々の手続き

 

ずっとずっとずっと、ほぼ1人で

立ち回ってきました。

 

 

だからといって

「哀しい」とか

「寂しい」とか、

 

そんなありきたりな想いは一切

出て来ませんでした。

 

 

認知症だった母とは、最後の10年間

まともな会話も意思の確認も

過去の話も

何も、

 

本当に何も出来ていませんでした。

 

聴きたいこと、

確かめたかったこと、

たくさんあったにも関わらず。

 

 

(なんかもう、いいや・・・・)

(あぁ、このままだと葬儀にも出られん。

困ったな・・・)

 

 

熱のまだ冷めぬ朦朧とした状態のまま、

葬儀社の手配など兄に任せて

しばらく寝室の天井を無言で

眺めていました。

 

 

夜勤明けで帰宅した主人にも訃報を告げ、

 

まずはこの先の段取りを

兄と電話で相談しながら

進めて行くことになりましたが、

 

 

1つ、わかったことは

 

 

あの5時30分過ぎにT病院から電話を

受けて駆けつけたとしても、

ここから車で1時間30分かかりますから、

母の臨終には間に合わなかった・・・

 

ということになります。

 

そして、

(普段介護にノータッチだった兄に

看取ってもらって良かった!)

勝手な自己満足をしていたのですが、

 

 

兄のところから病院まで約15分。

実は、それでも間に合わなかったそうです。

 

 

つまり、

兄が病室に入った時、既に

心電図の波形はなかったと。

 

 

脈拍や瞳孔の開きなど確認して

「心肺停止確定」したのが6時1分

ということだったんですね。

 

 

私たち兄妹は、

とうとう両親共に見送ることが

出来なかったと・・・

 

 

でも、何でしょう。

 

会社経営中は両親ともずっと忙しくて

私が12歳で大病をした時にも

 

父は海外出張、

母は忙しさに任せてあまり看病してもらえず

 

祖母に小さな町医者へ連れて行って

もらっているから問題ないだろうと、

 

症状が悪化しても誰も見向きも

してくれなかったという過去があります。

 

後に、会社で働いていた伯父に指摘され

大きい病院へ行って、

院長から「なぜこんなになるまで

放っておいたんですか!」と叱責され

 

慌てふためく母の姿を

おぼろげながら覚えています。

 

父が病院に駆けつけたのは

私が危篤から覚めた2日も後のこと。

 

 

 

いえ、決して恨みとかではなく、

 

 

何と不器用な両親だったのだろう、と。

だから、というわけでは

ありませんが、

 

両親の介護中は、

可能な限り、そしてごく些細な用事であっても

 

80kmの距離をすっ飛んでいって

困らないよう努めて来ました。

 

もしかしたら、これでさえ私の

自己満足なのかも知れません。

 

 

こんなことを繰り返して居る間に、

 

(親が亡くなって哀しい)

 

そんな想いさえどこかに

置いて来てしまったようです・・・

 

 

 

 

 

 

 

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この続きは、

【母が旅立つ日に起きていたこと④・終】

でお話したいと思います真顔キラキラ

 

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皆さま、新(アラタ)ですほっこりキラキラ

2023年も年の瀬となりましたね。

 

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9月、特別養護老人ホームに入所した

ばかりの母が入院したのが10月。

 

入所からわずか1ヶ月のことでした。

 

 

食べられないだけでなく、

排泄のためにぶら下げている袋に

尿が1滴も溜まってこないという危機に

面したのが12月1日頃のこと。

 

 

その時にも、

「すぐ来られませんか?」という院長の言葉に

仕事を優先してしまった私ぼけー汗

 

先方は「早ければ今日にも・・・」と詰め寄りますが

なんでしょう、

この日2本の個別講座をリスケしようという

気持ちにならず、

 

でも後ろ髪を引かれる思いのまま

2日間を過ごし、

12月3日に恐る恐る病院に電話。

 

受付からナースセンターに回され

そこで交代した看護師の言葉は・・・

 

 

「あ、お母さんお元気になられましたよ」

 

 

・・・・は?

 

あの時、

「早ければ今夜にでも」と言わざるを得ない

院長の思いはわかったのですけれど

 

う~~~んうーん

持ち直したならそれも連絡して

欲しかったな。

 

で、でもまぁ、

せっかく会いに来たのだしね。

 

その時間は本来の面会可能時間では

なかったため、

外来横のインターホンを押して

直接受付の人に誘導していただき

 

病室のある3階へ。

 

 

(入院した時とは部屋の位置が変わってるな?)

 

コロナが5類になったとはいえ

まだまだ院内では徹底して警戒しているらしく、

面会にかけられる時間はわずか5分ですショックあせる

 

 

いわずもがなですが、

 

声をかけても表情を変わるでなし、

返事をするでなし、

 

酸素マスクをつけているせいか

それともどこか痛いのか

 

時々顔をしかめながら、

目をうっすら開けたり、

また閉じたり・・・・

 

もはや私が誰なのかもわからないし、

「どなた?」と尋ねることもない。

 

長い時間を経て私は、

母の中では周りの景色の一部でしか

なくなってしまったんだなぁ・・・

 

 

ほどなく先ほどの看護師が

 

「5分経ちましたので」と

退室を促しにやって来ました。

 

院長も一緒に病室を出て、

 

「あとは、やはり自力でのお食事を取れる

ことがネックですねぇ」と。

 

 

以前聴いたよりも、

もっと(やりきれない感)のあるニュアンスに

思えたのは気のせいではなかったという

ことなのでしょうねぐすん

 

 

今思えば、

生きている母に会ったのはこの日が

最後になってしまったわけです。

 

 

①でお話したように、

 

(母のことだから、新しい年を迎える

ことができるんじゃないか?)

 

そんな想いも過ぎった私。

少なくとも危機を一旦脱したおかげで、

 

12月9日(土)に予定していた

大阪でのリアルな学びにも行ける!

 

大事を取って、学びのあとの

懇親会は欠席して帰ったのですが

 

 

大阪に行った週が明けた月曜日。

午後にはクライアント様の年内最後の

セッションを無事行ったものの

 

わずかながらに体調に異変を感じて

いたのですアセアセ

 

 

この時には、

咳が出るでも

鼻水が出るでもなく、

 

悪寒もないし?

節々も痛くないし?

 

ただ少し、頭が痛いかも?

くらいで翌12日も何とか過ごすことが

出来たのですが・・・

 

 

12月13日になって、

生活に大きな支障はないものの

何となく体の重怠さが。

 

もともと私は平熱が35度台と低いのですが、

 

念のためにと測り始めた体温計の

アラームが、この日はなかなか鳴りません。

 

業を煮やして途中で取りだしてみると、

 

 

 

(は?まだ測ってる途中でこれ?)

 

これはただ事ではない!と感じた私は、

かかりつけの総合病院ではなく、

午後も診療を行っている初診のクリニックに

駆け込んだのでした。

 

 

 

熱がある時点で病院の中には入れて

もらえないため、

駐車場から電話をかけて待機。

 

完全装備の看護師さんの手引きで

感染症の検査をしてもらいました。

 

 

15分ほどで戻って来た看護師さん、

 

 

「アラタさん、コロナ陽性です!」

 

びっくりびっくりびっくりびっくりびっくりびっくりびっくりびっくりびっくりびっくり

 

「院長の判断を仰ぎますので、このまま

お車でお待ちくださいね!」

 

「は、はい・・・」

 

 

え~、なんだこの熱、

やっぱりそういうことなんだ?

でも、熱以外さほどつらくないけど・・・

 

 

と、思っていると先ほどの看護師さんが

再び小走りに戻って来て

 

 

「アラタさん大変です!

インフルエンザB型も

陽性です!」

 

 

ガーンガーン

ガーンガーン

ガーンガーン

 

ま~~~~じ~~~~か~~~~!

 

「お薬の処方でよろしいでしょうか?」

「え、はい。お願いします」

 

 

・・・って、投薬以外に対処法が

あるとは思えないのだが・・・汗

 

 

待っている間に調べたのですが、

 

コロナとインフルエンザB型、

同時にかかる確率は0.8%ほどだとか。

 

そもそも同時感染の場合、

人によっては重症化リスクもあります。

 

5類に落ちてからのコロナの毒素が

どんなものかは

知る由もなかったのですが、

 

率直な感想としては、

 

 

おいおいおい、

こんな症状軽いのに

本当にW感染なの!?

 

 

 

そんな心の声が聞えたのか?

診療明細と一緒に渡されたのは

使用済み検査キット。

 

確かにコロナのところとインフルエンザ、

両方に(ー)線が浮き上がっていますショックあせる

 

 

「5類なのでご家族の濃厚接触扱いは

ありませんが、ご本人は検査日含めて

5日間はお外に出られません

 

・・・ですよねぇ笑い泣き

 

年末も近くなってからこんな形で

体調を崩すとはショック汗

 

 

しかし、

本当に大変なのはここからなのでした。

 

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この続きは、

【母が旅立つ日に起きていたこと③】

でお話したいと思います真顔キラキラ

 

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皆さま、

またまたご無沙汰の新(アラタ)ですほっこりキラキラ

 

 

ほぼ1年くらいかけて、

私の実父との長い長い葛藤を終わらせた!

・・・・と、思ったら

 

1年半後の今月14日、

とうとう実母が急逝してしまいました。

 

 

ただ、これは父の時と同様に、

私には十分過ぎるほどの覚悟もありましたし、

 

なにせ9月半ばにようやく特別養護老人ホームへの

入所が叶ったと思ったら

あれよあれよと食べられなくなってしまい、

1ヶ月後の10月半ばにすぐ入院。

 

”認知症だから、何もわからないだろう”は、

完全に健常者都合の見込みに過ぎません。

 

5年近く居たグループホームとは

明らかに違う何かを感じ取っていたのでしょう。

 

 

そういえば父も、

 

いよいよ1人暮らしが危うくなって来て、

でも介護認定が切れていたものですから

施設で看てもらうため一生懸命説得して、

 

再審査のために町医者にかかった矢先に

あちらの国虹に旅立ってしまいました。

 

デイサービスに行くのもイヤ。

自宅にヘルパーを呼ぶのもイヤ。

 

そんな父のささやかな抵抗だったのか・・・

 

 

母のことに話を戻しますが、

 

「食事が自分の口で取れない」ということについて

漠然と(え、別に大丈夫でしょう?)と多くの家族は

考えがちですよね。

 

高齢者となると話は別で、

 

本当に、何も食べない・飲まないとなった場合

たったの5日くらいで亡くなってしまうそうなんです。

 

特養に入る前の誓約書や確認書には、

 

チューリップ紫危篤となった場合の延命措置は希望しますか?

 

という項目がありますが、

 

母は認知症で、自分が今どこにいるのか、

なぜこんなところ(病院)に寝かされているのか、

担当医も看護師も、

私たち家族のこともよくわからん状態で

 

管だけを繋がれて、

それも放っておくと引き抜いてしまうから、

動けないように全身を拘束されて

ただただそこに横たわっているだけ。

 

心臓が止まらないから、

呼吸していいるから、

生かされているだけ。

 

そこに何の意味があるのだろう?

 

・・・と考えた私は入所時、

「延命は希望しない」の方で届けを出していました。

 

 

 

でもね。

 

それを決断する時が突然目の前に来てしまったら?

 

 

職員「”希望しない”で承っていますが・・・」

私「いやいやいや、ちょっと待ってください」

 

その瞬間生きている人を、

「あ、食べないんですね」

「じゃ、今日から食事は出しません」

 

というわけには、やっぱり行かない。

 

主治医のすすめもあって、

施設ではなく入院して適切な処置を受けた方が

いいでしょうということで、

病院に入ったのが10月ということだったんです。

 

 

ただ、主治医であり院長でもあるM医師は、

 

「もしかしたら、施設には戻れんかも知れません」

 

そうおっしゃって居ました。

 

 

80歳を過ぎる頃、

母には「心臓弁膜症」という重荷がかかっていました。

 

”何もなければ大丈夫”とは言えず、

心臓が活動している以上、少しずつ弁は傷つき、

機能は衰える一方。

 

加えて食事が口から摂取できない。

そして寝たきりともなれば、

仮に食べられるようになったとしても

立って歩くだけの筋力も残っていません。

 

 

「せめて、お口から食べられたらね・・・」

 

という主治医の言葉の裏には、

 

(もうこれ以上は、手の施しようがありません)

そんな言葉が隠されていたことも

私にはわかっていたんですぐすん

 

 

 

12月1日に一時的に

排泄が止まってしまう危機に陥ったのですが、

 

3日には奇跡的に回復。

 

「もしかしたら、新しい年を迎えられるかも?」

 

 

 

そう思う一方で、懸念もありました。

それは、

 

高齢者に限らず、重篤な状態にある患者が

なぜか一旦回復の兆しを見せることがある

 

ということ。

 

 

~母のはもしや、それではなかったか?~

 

 

嫌な予感はあったものの、

 

過去の荒波を超えて来た母の強運が

発揮されているのかも知れない!

 

この時の私は不覚にも、

そう信じようとしてしまっていたのでした。

 

 

 

 

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この続きは、

【母が旅立つ日に起きていたこと②】

でお話したいと思います真顔キラキラ

 

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