こんばんわ いつもお越しいただきありがとうございます。 ここは本当にどこなんでしょう
この扉がある 美術館は いったどこでしょう。この門は幸福のもんではなく・・・
地獄の門 (ロダン作)でした。全くの反対でしたね。
この門がある美術館は、国立西洋美術館でした。
お分かりになりましたでしょうか。
この美術館はル・コルビュジエの基本設計をもとに建てられ、1959年に開館したものである。緑色の外壁は、近付いてみると、緑色の小石を全面に貼り付けたものであることがわかる。ただし、現在の外壁は建設当時のオリジナルではなく、後に改修したものである。建物の平面は正方形で、各辺に7本ずつのコンクリート打ち放しの円柱が立つ。これらの円柱は、2階では壁から離れて立つ独立柱となっている。1階部分は本来はピロティ(高床)構造となっていたものだが、現在ではガラスの外壁が設置され、1階の大部分が室内に取り込まれている。1階中央部分は、屋上の明かり取り窓まで吹き抜けとなったホールで、ル・コルビュジエによって「19世紀ホール」と命名され、現在はロダンの彫刻の展示場となっている。1階から2階へは、彫刻作品を眺めながら上れるように、階段ではなく、傾斜のゆるい斜路が設けられている。
2階は、中央の吹き抜けのホールを囲む回廊状の展示室になっている。これは、ル・コルビュジエの「無限成長建築」というコンセプトに基づくもので、巻貝が成長するように、将来拡張が必要となった際には外側へ、外側へと建物を継ぎ足していける構造になっている。本館正面に向かって右側にある外階段は、本来出口として設計されたものだが、実際には一度も使用されず、立入禁止となっている。2階展示室は、内側部分の天井高が低くなっている。この低い天井の上は、自然光を取り入れ、明るさを調整するためのスペースとして設けられたものだが、現在は自然光でなく蛍光灯を使用している。また、2階展示室の北・東・南の3箇所には中3階が設けられ、細い階段が設けられている。ここは小型の作品の展示場として設けられたものだが、階段が狭くて危険であるという理由で、一度も使われたことがない。
川崎造船所(現・川崎重工業 )社長を務めた実業家松方幸次郎 (1865 - 1950年)は、1916年 (大正 5年)、商用でロンドン に渡った時に美術品の収集を始めた。収集の経緯等については、別項「松方コレクション 」を参照のこと。
松方の集めた多数の西洋美術品のうち、千数百点は1928年から1934年にかけて日本国内で売りたてられ、散逸した。これらの中にはブリヂストン美術館 等、日本国内の美術館に収蔵されているものもあるが、所蔵先不明のものも多い。松方の収集品はこのほかにもロンドンの倉庫に約300点、パリ のロダン美術館 に約400点が預けられていた。このうち、ロンドンの倉庫にあった分は、1939年の火災で焼失。パリにあった約400点は第二次大戦後、敵国資産として、フランス政府に接収された。この約400点が、今日一般に松方コレクションと呼ばれるもので、近代フランスの絵画・彫刻が中心である。
1951年 (昭和26年)のサンフランシスコ平和条約 締結の際、日本の首相・吉田茂 は、フランスの外相ロベール・シューマン に松方コレクションの返還を要請。その後の日仏政府間の交渉の結果、フランス側は条件付きで返還に応じることとなった。その条件とは、日本政府がコレクションを展示するための専用の美術館を設置すること、美術品の輸送費は日本側が負担すること、ロダン の作品『カレーの市民 』の鋳造費は日本側が負担すること、の3つであった。日本側が美術品の「返還」を希望したのに対し、フランス側は、美術品はいったんフランスの所有となったものであり、フランスから日本へ「寄贈」するとの立場であった。このため、国立西洋美術館では「寄贈返還」という言葉を使い、パンフレット等にも「フランス政府から寄贈返還された松方コレクション」と紹介している。コレクションのうち、21点は維持管理費捻出のため、1947年に売却された。また、ゴッホ の『アルルの寝室』などの名品18点は寄贈(返還)対象からはずされてフランスに残されることとなった(オルセー美術館 等が所蔵)。その結果、日本に寄贈されたコレクションは絵画308点、彫刻62点、書籍5点の計375点である。なお、「彫刻62点」には、日本側が鋳造費用を負担したロダンの『カレーの市民』は含まれていない。松方幸次郎本人は、こうしたいきさつを知ることなく、1950年に他界した。
1953年 (昭和28年)末、当時の文部省は「仮称フランス美術館設置準備協議会」を設置した。しかし、当時の日本は財政難で、新しい国立美術館を造る余裕はなかった。文部省は1954年度予算に美術館建設費として1億5千万円を要求したが、認められたのはわずか500万円であった。そこで、文部省としては、東京・上野の東京国立博物館 内の一展示館である「表慶館」を松方コレクションの展示場に充てようとしたが、フランス側はこれに不快感を示した。1954年初めに来日した、ルーヴル美術館館長(フランス国立美術館総長)のジョルジュ・サールは、松方コレクション専用の新たな美術館を早急に建設するよう、日本政府に要求した。
こうした中、1954年には実業家・政治家の藤山愛一郎 が中心となって「松方氏旧蔵コレクション国立美術館建設連盟」が結成され、1億円を目標に寄付金集めが始まった。連盟では当時活躍していた著名美術家たちにも協力を求めた。すなわち、大口の寄付者には見返りとしてこれら著名美術家の作品をプレゼントしようというものであった。この提案に対し、美術家たちははじめ難色を示していたが、ある会議の席上、洋画家安井曾太郎 が「このコレクションが戻ってきて、一番恩恵を受けるのは誰か。われわれ美術家ではないか」と発言したことがきっかけで、美術家たちは進んで協力するようになったという。1954年11月には補正予算で建設費5千万円が認められた。建設地はいくつかの候補地の中から、上野公園内、寛永寺 の子院の凌雲院跡地と決まり、建物の設計は20世紀建築の巨匠ル・コルビュジエ に依頼することも1954年に決まった。
1955年 (昭和30年)3月には建設予定地にて鍬入式を挙行。同年11月にはル・コルビュジエ本人が来日して、建設予定地を視察した。ル・コルビュジエは京都、奈良を訪問した後、帰国するが、彼にとってはこの8日間の日本旅行が最初で最後の来日であった。ル・コルビュジエからは1956年7月に基本設計案、1957年3月に実施設計案が届く。これをもとに、彼の弟子にあたる前川國男 、坂倉準三 、吉阪隆正 が実施設計を行い、建てられたのが、今日の国立西洋美術館本館である。ル・コルビュジエの設計案は、美術館本館のほか、講堂と図書館の入る付属棟、劇場ホール棟を含む大規模なものであったが、財政難のため付属棟と劇場ホールの建設は見送られた。ただし、ホールについては、後に美術館の向かいに東京文化会館 (前川國男設計)が建てられ、形を変えて実現している。
1959年 (昭和34年)1月23日、フランス外務省にてコレクションの日本への引渡式が行われ、4月には作品が船で日本へ到着した。同じ4月、国の機関としての国立西洋美術館が設置され、富永惣一が初代館長に就任した。同年6月10日、高松宮宣仁親王 夫妻や岸信介 首相らの臨席のもと、開館式が挙行され、6月13日から一般公開が開始された。(ウィキペディアより)
ベルリン国立美術館展TBS特別番組
「阿川佐和子と向井理のベルリン展スペシャル フェルメール 光の傑作」
| TBSテレビ | 2012年7月14日(土) 14:00~15:00 |
| BS-TBS | 2012年7月22日(日) 15:00~16:00 |
TV放送も決まっているようです。ご参考になればと思います。
あすは、どこへ行くのでしょうか?ご期待いただければいいのですが。
都内でちい散歩の予定です。道に迷わなければいいのですが・・・・
では では オヤスミなさいませ![]()