こんばんは 今日は遅くなってしまいました。
すみいません m(_ _ )m
ここは、本当に浅草ではなく上野駅でした。
最近上野駅もエキナカが変わってしまいとってもスッキリしています。スカイツリーが見えるなんて思ってもいませんでした。
上野駅の
コンコース は、地上と、公園口通路、大連絡橋通路、大連絡橋連絡通路(公園口通路と大連絡橋通路を連絡する)(以上3階)、新幹線地下コンコース(地下)がある。新幹線コンコースに行くには、地上の中央改札を入って右側の新幹線改札を利用する。
改札 は、中央改札(地上)、不忍改札(中2階)、公園改札、入谷改札(以上3階)の計4ヶ所である。また改札内改札として「ひたち」号乗換改札が地上および3階にそれぞれある。
出口は、地上の中央改札正面の「広小路口」「正面玄関口」や同左手の「浅草口」、中2階の不忍改札からは地上の「不忍口」「山下口」、3階の入谷改札からは2階の「東上野口」、3階の「パンダ橋口」、地上の「入谷口」などが利用できる。同じく3階の公園改札からは3階の「公園口」に直結していて、上野恩賜公園
へはここを利用するのが近い。
正面玄関口および広小路口の出口からは、国道4号
(日光街道)などを跨ぐ歩道橋が利用できる。また、駅を跨ぐようにパンダ橋が架かっており、自由に歩くことができる。パンダ像は2つあり、実物の倍の大きさはある巨大なジャイアントパンダ
像はパンダ橋口を出て右のところに、もう一つの小パンダ像は大連絡橋コンコースに、それぞれある。
京成電鉄 の京成上野駅 へは不忍口を経るように案内サインが設置されているが、地下鉄駅構内および京成線連絡通路で両駅が屋内・地下経由でつながっていることはあまり強調されていない。JRと京成線の連絡駅は、山手線・京浜東北線で北側に2駅進んだ日暮里駅が指定されている。
在来線のトイレは、13番線ホーム(地上)、3・4番線ホームへの階段と5・6番線ホームへの階段との間(中2階コンコース)、9・10番線ホームと11・12番線ホームとを連絡する箇所(2階)、大連絡橋通路(2か所、3階)、の計5か所である。
2009年 3月16日 、上野中央通り地下駐車場 および周辺8駅(JR上野駅・御徒町駅、東京メトロ上野駅・上野広小路駅・仲御徒町駅、京成上野駅、都営上野御徒町駅)を結ぶ地下通路が東京都 により整備され、供用開始された。これらの駅とは、同一駅としては認められていない。
新幹線開業以降JR駅内部の改装工事が始まり、1990年代 後半には改札内部に「Dila 上野」(駅ナカ)が完成した。その後、JR東日本ステーションルネッサンス「みんなのえきプロジェクト」と称して中央改札・不忍改札側の駅舎内部も改装され、東西自由通路(愛称:パンダ橋)や正面玄関「レトロ 館」の「Breakステーションギャラリー」、中央改札の「グランドコンコース」、ショッピングセンター「七番街(アトレ 上野)」などが整備され、2002年3月にグランドオープンした。同年2月22日開店のアトレ上野は「FUSION SQUARE 人が集まるeki融合空間」をコンセプトに駅周辺にない飲食・食物販・ファッション・雑貨など54店舗を「レトロ館・ガレリア」「グランドコンコース」「七番街」の3ゾーンに配置し、20 - 39歳の女性をターゲットに新たなエキナカショッピングシーンを演出している。その後、2007年 4月から9月にかけてリニューアル工事を行い、「ゴディバ」「日本橋屋長兵衛」「アール・エフ・ワン」「ベーグル&ベーグル 」「ジンズ グローバル スタンダード」「サマンサタバサ プチチョイス」のオープンと既存9ショップの改装を行った。また、東京圏駅ビル開発 は、同年8月に浅草口地下でカフェ・雑貨ショップなどを配置した新フロア「レトロゲート」を開設した。9月にはフロアリニューアルを行い、グランドオープンした。そして、2005年春に全体のリニューアル工事が完成し、全面が白で統一された外観となり、エレベーター の整備も行われた。完工時には「上野駅リニューアルキャンペーン」が開催され、JR東日本のイメージキャラクターであり、このイベントのCF にも登場した女優の国分佐智子 を招いてのオープニングセレモニーが行われた。この大改装は品川駅 や大宮駅 などで展開されている、いわゆる「駅ナカ」の模範となっている。
東北・上越新幹線の開業に伴い並行在来線の特急列車が大方廃止され、地上ホームの19・20番線が廃止となり、1999年 9月には18番線も廃止された。その跡地と東上野口・入谷口には、2006年 7月19日 からフィットネスクラブ (ジェイアール東日本スポーツ )が入居している。
東北・上越新幹線開業前は、都内の北へのターミナル駅として北関東 、東北 ・信越 ・北陸 方面へ向かう東北本線、日光線 、磐越西線 、奥羽本線 、高崎線 、両毛線 、上越線 、信越本線 、吾妻線 、羽越本線 、常磐線の各特急 ・急行 など長距離優等列車が数多く発着していた。しかし、新幹線開業のため並行在来線の優等列車は次第に廃止、地上ホームも削減され、その削減された跡地が新幹線ホームに向かうコンコースとなった。その後は中距離電車 が増発され、発着列車の大半が宇都宮線、高崎線、常磐線の北関東方面へ向かう近郊・中距離電車となっている。
当初、高架ホームは常磐線各列車主体に使用され、高架ホームを発着する東北・上信越方面各列車はごく一部であった。逆に地平ホームを発着する常磐線列車は皆無で、地平ホームは東北・上信越方面各列車の専用ホームであった。その後、特急・急行列車の増発に伴って、また、中距離通勤客の増加に伴い、地平ホームは特急中心で、高架ホームは各線普通列車中心で運用されるようになり、2011年現在は宇都宮線と高崎線の普通列車は5 - 8番線の高架ホームと13 - 15番線の地平ホームのいずれかに発着する。常磐線(常磐快速線)は9 - 12番線に発着するが、一部の宇都宮線と高崎線は9番線にも発着する。
山手線と京浜東北線以外の発車標 は、新幹線開業時に幕式からLED 式のものに置き換えられた(新幹線は当初からLED式、京浜東北線は1990年頃設置)。また、新幹線ホームは2007年3月にフルカラー LED式に置き換えられた。また、ATOS 導入後は全ホームに発車標が設置され、放送もATOSに準じたものに変更されている。また、2008年 8月には5 - 17番線の先発列車発車標に路線名が表示される仕様になった。
乗車案内として、下り新幹線ホームの19・20番線に、LED式乗車位置案内表示器が設置されている。
日本鉄道 は、上野 - 熊谷 間の開業に先立ち、1882年 (明治 15年)11月に寛永寺 の子院 跡約29,800坪 (約98,512m²)を東京府 より借り受け、上野駅の用地とした。1883年 (明治16年)7月28日 には同線の仮開業に伴い上野駅を開設し、同年8月より貨物、10月より郵便物 の取り扱いを始めた。1884年 (明治17年)6月28日 には仮駅舎で開業式が行われ、1885年 (明治18年)に煉瓦 造りの237坪(約783m²)の本駅舎が竣工した。この初代駅舎は三村周 が設計、毛利重輔 が監督を行い、中央の平屋 部分に出札 広場とコンコース 、両翼に待合室 を設置したH型平面の構造で、当時の汐留駅 や横浜駅 を踏襲した形となっている[27] 。
1885年に途中大宮駅 から宇都宮駅 に至る区間(利根川 渡河区間を除く)が開通すると、上野駅は東京側のターミナル として繁盛するようになった。当初は1つの駅構内に旅客・貨物・車両基地の機能を併設しており、次第に鉄道輸送の需要が伸びてくると構内が手狭になってきた。また駅周辺の道路が狭隘で、ここに旅客を輸送する馬車鉄道 や貨物を輸送する大八車 が輻輳するようになったため、旅客と貨物の機能を分離する ことが計画された。1890年 (明治23年)11月1日 には南方に地上の貨物線 を開通させ、新たに設置された秋葉原貨物取扱所(後の秋葉原駅 )に貨物取扱を移転した。さらに1896年 (明治29年)12月25日に開業した隅田川駅 にも荒荷の扱いなどを分散移転して、上野駅は同年12月1日に旅客専用駅となった[28] 。1900年 (明治33年)には日本鉄道が駅前広場に飲食店、喫茶店、雑貨販売店の入った上野待合店を建設している。これは110坪(約364m²)2階建ての建物で、後に理髪店なども入居したが、1922年 (大正 11年)に撤去された[29] 。
1905年 (明治38年)4月1日 に常磐線 の三河島 - 日暮里 間が開通し、それまで田端 で折り返して運転していた常磐線の列車が直接上野駅へ乗り入れるようになった。同年には新橋 - 上野間の高架旅客線の建設とそれに伴う上野駅の改築が決議されている。1906年 (明治39年)には日本鉄道の国有化に伴い、上野駅も国有化され、1909年 (明治42年)10月には秋葉原 - 上野 - 青森間が東北本線 と定められた。同年12月16日 には山手線 の烏森(後の新橋 ) - 品川 - 新宿 - 池袋 - 田端 - 上野間で電車の運転が開始され、上野駅はその一方の端となった。
このような状況下で上野駅の利用者は増加を続け、1917年 (大正6年)には構内に事務所 が9棟、倉庫 が10棟、その他売店 などが44棟も立ち並び、スペースが限界に近づいていた[30] 。1923年 (大正12年)9月1日 の関東大震災 では初代駅舎が消失し、同月23日 に仮駅舎で営業が再開した。同年からは鉄道省 東京改良事務所により上野駅周辺の改良工事が始まり、1925年 (大正14年)3月1日 には新橋駅との間の高架旅客線が開通して山手線の環状運転が始まり、東京の都市内交通である同線の電車と、東北・常磐・高崎といった長距離の幹線との接続する駅として機能するようになった。
1930年 (昭和 5年)3月1日 に地鎮祭 が行われて改築工事が始まり、1932年 (昭和7年)4月2日 に2代目の駅舎が落成し、同月5日 より営業を開始した。この駅舎では利用者の安全に配慮した動線設計がなされ、乗車客は1階の車寄せ から列車ホームに、降車客は地下1階の車寄せに出るようになった。外壁は多胡石 と小松石 の砕石が入ったモルタル 塗りで、臍壁には花崗岩 が用いられている。また、構造上の大きな特徴として、本屋の中央に設置した30×20.3×13.25mの広間空間が挙げられる。この空間は正面玄関の機能を持ち、2階部には業務エリアの移動のための回廊が設けられていた[31] 。また、秋葉原の貨物取扱設備が高架上に移転したの受け、東西交通を遮断するなどの問題を引き起こしていた地上の貨物線は1932年7月1日 に廃止されている。2013年 (平成25年)度 - 東北縦貫線が完成し、当駅止まり(始発)だった宇都宮線・高崎線・常磐線(快速)が東北本線本来の起点である東京駅およびその先の東海道本線 への乗り入れを開始(再開)する予定。
(ウィキメディア・コモンズ)より
いろいろな歴史がありそこに人と出会い 別れ 泣き 笑い 歴史が育んできたんですね。
あすは、またどこへ行くのでしょうか?
お楽しみに お休みなさいませ。![]()