新入団及び再入団の
皆様
ようこそ
奈良フロイデ合唱団へ!
新しい仲間と共に素敵なハーモニーを奏でることが出来ますことをとても嬉しく思います。
先日、新入団員及び再入団の皆様に自己紹介文をお願いしましたが、それは紙の形の和音特別バージョンとして奈良会場だけで配布、公開させていただきますので、ご安心下さい。
奈良フロイデに入団しようと思ったきっかけ、合唱経験歴、好きな曲(ジャンル)、楽器の経験など、音楽に関することから、その他趣味や特技など遠慮無くご自由にお書き下さい。
宜しくお願いいたします。
和音編集部
シューベルト考察
フランツ・シューベルト(1797〜1828年) はクラシック音楽史のロマン派初期を代表する作曲家です。当時の音楽都市であるオーストリアのウィーンで活動しました。さまざまなジャンルの作品を1000曲近く残しましたが、特に600曲におよぶ歌曲作品の素晴らしさは後世にも影響を与え「歌曲王」とも呼ばれています。
1815年には140曲を超える歌曲が書かれ、有名な『魔王』や『野ばら』、ミサ曲ト長調が作曲されました。「リート」と呼ばれるロマン派の芸術歌曲(歌とピアノ伴奏の両方に詩の背景を表現させる表現様式)の時代はシューベルトの登場によって確立し、クラシック音楽の歴史上に大きな影響を与えました。
1824年には弦楽四重奏曲ニ短調『死と乙女』、27年には連作歌曲『冬の旅』を書き上げました。28年には交響曲ハ長調『グレイト』やピアノ・ソナタ三部作を完成させるなど創作意欲は衰えぬまま、その年の11月に31歳の若さで生涯を閉じました。
ベートーヴェンへの憧れ
ベートーヴェンは1792年からウィーンを拠点としており、シューベルトにとっては最も近くて遠い存在だったといえます。なにより、シューベルトの音楽に与えた影響は計り知れません。ベートーヴェンを尊敬し変奏曲を献呈したり、最晩年には見舞いに訪れています。同じ地で活躍しほぼ同時期に亡くなったふたりは、ちょうど古典派とロマン派の移行期に位置しているのです。遺体は兄の尽力によりベートーヴェンの墓の隣に埋葬され、その後墓地が移りましたが今でも隣同士で眠っています。
芸術歌曲「リート」
31年の生涯はつねに歌曲の創作と向き合っていました。かつては単に歌曲のことを意味していた「リート」ということばは、シューベルトによって芸術性が高められひとつの表現様式を表すようになりました。それまでの歌曲との大きなちがいはピアノパートの扱い方にあります。歌の伴奏にすぎなかったピアノパートにシューベルトは詩の内容を表現するための音楽をつけたのです。例えば『魔王』では馬が駆ける様子を絶え間ない音の連打で表現しています。
シューベルトはベテランから若手まで幅広い詩人の作品に曲をつけました。なかでも強く関心を寄せていたのがゲーテやシラーの詩です。歌のメロディの美しさもさることながら、詩の内容を表現するピアノパートとのかけ合いも絶妙です。作品数は600曲にもおよび、今では埋もれてしまった作品もありますが、初期の『野ばら』『魔王』をはじめ、『アヴェ・マリア』、連作歌曲《美しき水車小屋の娘》《冬の旅》(なかでも『菩提樹』は人気があります)などの傑作は現在でも演奏会でよく演奏されています。
ミサ曲ト長調
シューベルトが1815年に作曲したミサ曲の一つです。この作品は3曲の小ミサ曲のうち最も有名なもので、ソプラノ、テノール、バスの独唱と合唱、弦楽合奏とオルガンのために書かれました。シューベルトはこの作品を1週間もかからずに完成させ、リヒテンタールの教区教会で初演されました。しかし、シューベルトの死後まで出版されず、長らく忘れられていました。現在ではシューベルトのミサ曲の中でも人気の高い作品です。
シューベルトはクラシック音楽の歴史においてロマン派に入れられることが多いものの、古典派からの影響を強く受けています。交響曲や弦楽四重奏などの古典派で流行した形式にもとづきながらも、叙情性をそなえた旋律や時折見られる大胆な転調からはロマン派の響きを感じさせます。美しいシューベルトの音楽からは、モーツァルトやベートーヴェンの音楽に続く新しい時代を切り拓こうとする
貪欲さも感じ取れます。
シューベルトのあだ名は「きのこちゃん」
(正確には「マッシュルームちゃん」だったとか・・・)。
今号は以上です
本誌 了 No.1790 Vol.37-11