これは私自身の動画です。最後のランディングのスピード感がいいねえ・・。同じ処でグルグル、ステイして上昇気流キャッチを狙うもダメ。ここを外れれば直ぐ降りてしまうので仕方ない(67歳直前のフライト・・最後かも・・。)

こんにちはー・・、さぶです。

「梅雨」に入って6日が経つけどまとまった雨が無い、どうなってんだろ?まあ、あまり雨を望んではいないけれどもね・・。それにしても‘梅雨寒’だね・・。

さあまた昔話です・・S61年3月

学校新聞発行の作業は進んでいた・・、6日に広報部会で集まってもらい‘ゲラ刷り’が出来たので皆に見てもらった。後は校正作業だったが時間が遅くなり持ち帰っての作業になってしまった。
誰もすすんではやってくれる人はいなかった・・、仕方がないので私がやる事になった。誰がやっても私の手元に届いて、それを学校側に見てもらってOKをもらうのは部長の私なので、面倒だから引き受けてしまったのだった。

12日がPTAの期末集会で、授業参観があり講話もあった。それが済んでから学年部会が開かれた。6学年の部会長の私、・・卒業式の件や謝恩会の段取りを済ませて、その後に広報部会も開らかれた。
学校新聞は今日のPTA集会に間に合い、子供達もしくは父兄の手に渡った。ホッとした・・、もう広報部会としての作業は無いと思っているが・・。

さて・・、13日の夜に6学年の父兄のTさんから私の処に電話が入った。
・・と言うのも、12日の学年部会で、‘卒業式の子供たちの服装は自由で、やむを得ない場合は中学の服装でOK’と決まっていた。当然そこには6年担任の教師も加わっていた。
・・が学校側から子供達を通じて「それはダメ」と父兄に連絡された。そこで父兄の何人かが騒ぎ出し、Tさんが学年部会長の私に電話をかけてきたのだった。

私は腑に落ちなかった、・・あの時の会議には6年担任教師も居たのになぜ黙っていたのだろう??。まあ、早い話が校長から「それはまずいよ・・」とか言われて何も言えずに子供を通じての学校側の考えを伝えたのだろう。

私も学年部会長として不手際だったね、・・その場でそれを学校側に確認すべきだったんだ。
私も学校側と話し合うのも面倒になり、次の様に手を打った・・。

私は直ぐにSさんに電話を入れた。Sさんと言うのは同じ6学年の女児が居て、役場の職員であり我が小学校の事務局を務めている夫人である。住まいも同じ地区だった。
「・・と言う事で父兄の何人かが心配して騒いでいるので、申し訳ありませんが学校側の説明を文書にして各父兄に配布してくれませんか・・」とお願いした。
・・じゃないと学年部会の決定の責任が取れないからね。学校側からの説明が有れば、俺としては何も言うつもりは無いし誰からも文句は出ないだろう、・・と思ったのだった。学年部会長としての逃げだね・・。

20日、卒業式が開催された、場所は体育館である。
卒業生が並び、その後ろにズラリと在校生が並んでいる。その脇に教職員とPTA役員が並び、反対側には来賓客が顔をそろえていた。
私は学年部会長として卒業生の後ろに座っていた。

式次第に従って粛々と式は進んでいった、・・それに従って俺の鼓動も激しくなってくる、ドキドキドキドキ・・。
さあ来る時が来た、・・最後に卒業生の父兄としての学校への謝辞である。これは当然学年部会長の私が述べることであり、避けられなかった・・。

言っておきますが、俺は人前で話すのが大の大の、大の苦手なんです!。「インド1周単独サイクルツアー1万㎞」(ブログアップ済み)なんて21歳の時やったけど、挨拶はこれよりも辛いことだねえ・・。

式の進行係から、「次は卒業生の父兄代表の謝辞・・」と促されて私は立ち上がった。一瞬迷った‘何処で?場所は?’・・、堂々と前に出ていくのも変だと思いそこで始めた。
直ぐに進行係が、「此方のほうで・・」と言ってきた。
その言に従って最前列から、全員に面と向かっての謝辞になった。・・ここまで来れば首をくくるより他はなかった。
まあ、謝辞文はそれなりに考えて覚えたつもりである、起承転結などを考慮してね。その紙を出しての棒読みじゃあ心がこもってないから覚えたよ・・、ただ上手く声が出るかどうかはやってみなければ判らない。

・・式が滞りなく進んで閉会となった。
その後はお決まりの卒業生の父兄主催の「謝恩会」がイベント式場「寿楽」で行われた。
その席で女教員から、「謝辞のあいさつ、とっても良かったですよ、メリハリがあって・・」と言われた、お世辞だろうけど嬉しかったねえ・・。
「謝恩会」は卒業生の父兄は全員参加し、その勢いで2次会は「チャボ」という店に行った・・参加父兄は18名で大いに盛り上がったね。良かった、よかった・・私の学年部会長の仕事も終わってホッとしたね・・。

それじゃあ、またね・・。