これは私自身の動画です。最後のランディングのスピード感がいいねえ・・。同じ処でグルグル、ステイして上昇気流キャッチを狙うもダメ。ここを外れれば直ぐ降りてしまうので仕方ない
(67歳直前のフライト・・最後かも・・。)

こんにちはー、さぶです・・。

いよいよ10月に入りましたよ・・良い気候ですねえ、私はこの季節が1番好きです。
それにしても1年の4分の3が終わってしまいました・・早いねえ・・。

さあ、また昔話です・・・S46年2月・その2

仕事の方は相変わらず日産栃木工場建設現場です。
日瀝の仕事が忙しい、工場内の道路の舗設工事である。外業もそうだけど、内業の実行予算の作成や単価の計算もしなければならなかった・・。
6日にM浦さんの送別会があった、第1課から10人の参加である。
彼は予定通り、元1課長のOさんが立ち上げたSR工業に移るのは皆の知る事だった。

10日からは3日間連続のアスファルト舗設になった。10日が148トン・11日が189トン・12日が119トンだった。
3日もやると自分の顔が煤けるのが判るよ・・、毎日国道でやっている作業員の顔を見てごらんなさい・・日に焼けて黒いんじゃあないんだよ、煤けて黒いんだから・・。

平出は会社に辞表を出したようだ、やっぱりOさんの立ち上げたSR工業に移るようだ。まあ仕方あるまい・・。
13日の夜に彼とスナック「ネイチャーボーイ」で飲み、「房総半島に行こう!」と決まりAM0時30分に出発した。(こんなところが無鉄砲な若者だね・・)
だけど途中で房総半島への道が解らなくなり「鎌倉に変更しよう・・!」となって鎌倉に向かった、こんなことも臨機応変である。
鎌倉につき、鶴岡八幡宮・国宝館・大仏・長谷観音などを足早に見学し、さっさと宇都宮に戻った、着いたのはPM6時半ころだったよ。

平出は会社に辞表を出してから、専務と次長にあるところに呼び出されて辞表の取りやめを説得されたそうだ。彼の意思は固い、変わらないだろうなあ・・。

19日、昼飯を食べていたら平出の妹さんから電話があったのを知らされた。それに続いてM田さんより「吉田君、平出君の居場所が分からないけど知っているか?」と聞かれた。「何も聞いていないよ・・」
私はすぐに妹のT子さんに電話をした、「16日遅くカメラを持って出かけて、それから分からないんです・・」と言うのだった。

彼は俺の親友、・・こんなときは誰よりも彼のことを知っている・・彼の行動・行先などもそこそこ判る・・あちこち電話をしたら解ったよ、何の事はない・・一人旅に出たんだ、仙台・平泉・山形方面に出かけたのが判った。
私は彼の家に行き、お袋さんに旅行に行ったことを告げた。そして今の会社の問題とO課長のことも・・、彼が会社を移ろうとしていることも。
訳が分かって安心したようだった。彼は彼でやっぱり人生の選択や人間関係で大いに悩んでいたのである。突発的な鎌倉行きもその表れだろう・・。
俺は彼の家には高校時代から出入りをしているので、お袋さんとも親しく話せるんだよ・・。

翌日の20日に彼より長い手紙が届いた。平泉から投函されたもので、仕事や会社や人間関係や自分の気持ちを細々と書かれてあった・・やっぱり若い青春の心の迷いだろう・・それが青春だ!いいんだ!。

さて・・・
私はすでに自分の人生設計の青写真に沿った行動を起こしていた。今でいう‘婚活’です。
予定通り私は百姓への道を目指していた・・。
それなりの話も入ってきていたよ・・。

じゃあ、またね・・。