ところで、ここに書いた翌日の朝のこと。
訳の分かんない言葉が、心に浮かんだ。
調べてみると、いわゆる「真言」の一部。
真言宗には、特に選んで「十三仏」がある。
仏、菩薩には、それを象徴する文字なんかがあるけど、マントラも、そういう類のような気がする。
たとえが適当じゃないけど、アドレスみたいなもの。届ける相手を特定する、一つのコードのようなもの。実は、コード自体には意味はない。これに人間が意味を与える。
マントラは、もともとはただの文字、それに伴う音に過ぎない。これに、意味を与えた。
直接に仏、菩薩に働きかけることができる。そんな役割を、マントラに与えた。
仏、菩薩には、それぞれ、それ自体を表す真言が与えられた。いわば、通信手段。
真言宗は、その中から、特に十三を選んで、その真言を唱えることを日常の勤めにしている。
これは、おそらく、真言を唱えること自体が目的で、それによって何かになったり、何かを手にいれる訳じゃない。
あえて言えば、自分がなくなり音そのものに「なる」。よく、自分が仏になるなんて言い方をするけど、自分がなくなって、仏だけがある状態なんだろう。
それから、何かを手に入れると言っても、真言があらゆるものに優先するなら、真言を手に入れたこと以上はないことになる。
ところで、思い浮かんだのは、そのうちの一つ。いわゆる、干支に仏、菩薩を引き当てて守り本尊なんて呼ぶけど、その守り本尊の真言の一部。
多分、記憶にあったんだろ。
それにしても、どの真言も、音にすると、日本語には似たような音の組み合わせがないような気がする。
ところで、いつも、本当は何かすべきことがあった筈って気がしてる。勤めというのか…。
それって、こんな真言を唱えることじゃないかって気もする。
朝晩のお勤めみたいに真言を唱えるって必要もない。
常時、一日中、心の中で唱えいてもいいのかもしれない。
そーゆうと、それこそ何かに取り憑かれたように聞こえるけど、必ずしも、そんな異常なことじゃない。
もともと、たいした仕事をしてない。だから心の中では、日中も真言を唱えててもいいだろうし、電車の中でも…、他に特に関心のあることもないし、しなければならないこともないから…。
本来すべきことがあったような気がしてるって、その一連の「すべきこと」の一つが真言を唱えることのような気もする。