7月の中旬

青春18きっぷをつかって

カミさんと鹿島神宮様に参拝してきました

お天気が良いのは嬉しい事でしたが

暑かったなあ

楼門をくぐって境内に入りました

先ほどまでは木陰で涼しかったんですけど

日向は暑いなあ  くどいねw

 

鹿島神宮様(公式より)

 

鹿島神宮は

日本建国・武道の神様である「武甕槌大神」を御祭神とする

神武天皇元年創建の由緒ある神社です

現在の社殿は徳川二代将軍の秀忠により

また奥宮は徳川家康

楼門は水戸初代藩主徳川頼房により奉納されたもので

いずれも重要文化財に指定されています

 

 

今年は皇紀2681年だから古いですよねえ

竹内むっちゃん先生は

神武元年は西暦 紀元前10年位と言っていたけど

やっぱりそうとう大昔ですよねえ

あと古事記 日本書紀には

武甕槌大神と鹿島神宮の関係は載っていないとか

 

御祭神 武甕槌大神(たけみかつちのおおかみ)

和魂 御本殿 拝殿

奥にご神木の杉

 

先ずは神様にご挨拶をさせて頂きました

無事参拝できた御礼と国家安寧のお願いをさせて頂きました

明るすぎる境内を歩いていたからか

目が慣れなくて

うす暗い拝殿の奥がよく分かりませんでしたねえ

 

単純に短いお詣りだけで満足できてしまい

内部の様子も伺わずに

すぐ拝殿を下りてしまったことが

なんか不思議な感じでしたねえ

今思っても後悔ではなく自然な行動でしたね

 

撮影禁止の看板は無かったようですけど

いつものようにカメラを出す事も忘れていました

写真を見直すと拝殿前に鳥居があるのが珍しいですねえ

参道で狛犬さんも見かけなかったし

いつも伺う普通の神社様とは なんか違うんだなあと思いましたね

御本殿とご神木の杉

向かって左側 立ち入りはここまで

三峯神社様 東照宮みたいな雰囲気 江戸時代だねえ

 

拝殿を通り過ぎるとすぐに奥参道が始まります

カラスも のんびり

時間的なのかな?

カラス君見かけたのはこの時だけかも

ウグイスは相当いるみたいであちこちから声がきこえていました

写真でみる 鹿島神宮といえば

この風景ですよねえ

なんだか伊勢神宮を歩いているような気分でした

 

うん なんだか気軽にパワースポットとか

言っちゃあいけない雰囲気に包まれましたねえ

暑いから木漏れ日の日向を避けながら歩きましたけどねw

\(・×・)/

 

大きな森の中だけど

普段よく行く中部山岳地帯と雰囲気が違うなあと

植物相が山と違って海が近いからだなあと思ったのも

参道が玉砂利では無くて

海岸を歩くと よくある海の砂地の道だったからだね

水たまりが出来るような窪地も無く

参拝客も多いんだろうけど

きれいに整備されているんだなあと思いましたね

 

そういえば伊勢神宮も海沿いでしたねw

 

拝殿から奥宮までの道は「奥馬場」とも呼ばれ

5月には流鏑馬神事が行われるそうですね

 

参道脇に

さざれ石がお祀りされていました

その横に鹿園(ろくえん)

30数頭いるらしいけど

暑いからか外に出ていたのはこのファミリー?だけでした

普段は網の隙間からニンジンを上げられるようだけど

今はできないみたいでした 疫病対策かも

2か月続けて日本鹿みたなあ (・∀・)スンスンスーン

参道に戻って奥宮に向かいました

そういえばシカさん放し飼いされていないんですねえ

後で調べたら
鎮守の森
鹿島神宮の杜は茨城県指定の天然記念物です

広大な森には杉のみならずシイ・タブ・モミの巨樹が生い茂り

生育南限と北限の植物が混ざっているのも大きな特徴です

「鹿島神宮樹叢(じゅそう)」と呼ばれています
広さは21万坪あり(東京ドーム約15個分)800種を超える植物の宝庫です
明治神宮を造営する際にそのモデルになったという由緒ある美しい森です

パンフレットより 

シカさん放して食べ放題になったら(´・ω・`)大変だからかもw

奥宮 (公式より)

武甕槌大神(たけみかつちのおおかみ)

荒魂 本殿 拝殿

現在の社殿は慶長10年(1605)に徳川家康が

関ヶ原戦勝の御礼に現在の本殿の位置に本宮として奉納したものを

その14年後に新たな社殿を建てるにあたりこの位置に遷してきたものです

 

奥宮は鹿島神宮の御本殿だった建物だとか

 

令和の大改修とかで養生に包まれていました

そのため

本殿よりも拝殿内が暗くて 中の様子がほとんど伺えませんでした

なぜかお詣りさせて頂いたのに

ご神気を感じられない気がして

(個人的な気分ですけどね(⌒_⌒;

元々普段から何も見えない人なんでねw)

 

巨大な覆いに包まれているからでしょうに

ビジュアルって大事ですよねえ(´-`).。oO

奥宮様の横を通って要石に向かいました

あれ!有名なナマズを踏みつけている神様

もっとちゃんとした所にあると思っていたら

参道の四つ辻にポツンと置かれていたんですねえ

途中

参拝客にしてはへんな高齢者さん達と何度もすれ違いましたけど

地元の方々のウォ-キングコースだったんだねえw

要石が見えてきました

鳥居の奥に「要石」がお祀りされています

「要石」(公式より)

地中深くまで埋まる要石が

地震を起こす鯰の頭を抑えていると古くから伝えられています

水戸の徳川光圀公が

どこまで深く埋まっているか確かめようと

7日7晩にわたって掘らせたものの

いつまで経っても辿り着くことができなかったばかりか

怪我人が続出したために掘ることを諦めた

という話が黄門仁徳録に記されています

 

真ん中おへそのように凹んでいるんですね

香取神宮様の要石は尖った丸石なんで

雌雄 陰陽一体とも伝わっているそうですね

 

大地震から御守りくださいとお詣りしました

 

目標っぽいからって

お金を投げるのはよくないよなあ

最近何処へいっても見かける

投げ銭は (´・ω・`) よくないよなあ

 

 

芭蕉さんやら親鸞聖人様やら

昔から 偉人様が訪れているんですねえ

要石の前には芭蕉の句碑と 

なにやら  安政五年の石塔

大大御神楽

 

なんとなく4面の写真を撮ったんで

帰宅後調べ始めたら大変でしたあ

写真だけ撮っておけば世の中 マニアの人がいっぱいいるんで

碑文の解説なんて簡単に出てくるだろうと思っていたら

ほぼ2日間かけても わかりませんでしたあ

どーでもいいことをとりあえず

深く知りたくなるという 悪い業がまた出てきて

地雷を踏んじゃいましたあw

安永五年丙申(1776年江戸中期くらいかな?)歳五月吉祥

大禰宜(おおねぎ)中臣朝臣真親 (なかとみの あそん まさちか)

 

ここまではわりと簡単に読めましたけど・・・

碑文を調べるうちに色々なことが分かってきました

 

鹿島神宮

奈良・平安時代にあって日本の政治の中心的氏族である

藤原摂関家の氏神として広大な「鹿島社領」を持ち

権勢を誇っていた鹿島神宮も

武士の勃興により権勢に陰りが見え始めた頃

鎌倉時代 源頼朝が「平氏追討」後 関東の支配者となった
頼朝は鹿島神宮に寄進し鎌倉幕府と神宮との出会いが始まる

 

神宮側においても古来より

大宮司家と大禰宜家との実権を巡る争いが続き

9世紀以後中臣氏が大禰宜を世襲した

 

大宮司 「だいぐうじ」 神宮の最高責任者
古くは中央の大中臣氏が補任されていたが

(おおなかとみ うじ 古来より全国的に祭祀を執り行う一族)

11世紀頃から大中臣氏と

中臣氏(中臣鹿島氏 元平氏 鹿島神宮に関わる地方の中臣氏一族)が

交互に務めるようになり

13世紀以後は中臣氏が世襲した


大禰宜「おおねぎ」

神社の庶務を担当 神体奉戴や献饌も行なった
9世紀頃には禰宜が確認され12世紀頃を大禰宜の初めとして

以後中臣氏(中臣鹿島氏)が世襲した
鎌倉時代以後は荘園性により大宮司よりも多くの所領を有しており

神宮で実質的に最も実力を持った

また鎌倉時代以降 近世まで武家と神社の対立が繰り返されたとか

 

なかなかに きな臭い歴史もあるんですねえ

年代は世紀表示にしました

さて問題の2面です

右は・・・左は・・・と

 

現地では単に地名案内だと思っていたんですけど

どーやら違うぞと 結局2日かけても分かりませんでしたあ

 

「右は經津主命(フツヌシのみこと)

左は天兒屋根命(アメノコヤネ 天児屋命・天児屋根命)」

 

鹿島神宮にはこのフレーズがある事は確認できましたけど

アメノコヤネは中臣氏の始祖くらいしか想像できなくて

意味までは確認できませんでした

 

関連する東国3社のことかも?と

当てはめようとしても微妙にハマりませんねええw

鹿島神宮 御祭神 武甕槌大神(たけみかつちのおおかみ) 建御雷

息栖神社 御祭神 岐神(くなどのかみ)久那斗神
相殿に天乃鳥船神(あめのとりふねのかみ)

香取神宮 御祭神 經津主命(フツヌシのみこと) 

御名伊波比主命(いはひぬしのみこと)

 

わかりません も~いいですw

 

※後日追加

先程カミさんが鹿島神宮とはまるで関係ない本を読んでいて

万葉仮名の基本として

当て字で一字一読みが基本と言い出して

この石塔の文字を改めてみたところ

やっぱり

左はアメノコヤネノミカミと読むんじゃないかと言い出しました

カミさんはアメノコヤネの神様の由緒なんて知らないので

だれそれ?美味しいの??状態でしたんですがw

 

あたしとしてはフツヌシに対となる神はタケミカズチ クラスの神と

思いこんでいたんで

アメノコヤネノカミは時代も違うしなあ・・・と

考えてみればアメノコヤネノカミは

高天原で天照に岩屋から出ていたくための

祭祀的な重要なメンバーで

タケミカズチの神よりも重要な神様でしたよねえ

 

当時より祭祀を取り仕切っていた

中臣氏の超超祖先の神様で

石塔を立てられた中臣朝臣真親様が

記憶として祖先を称えて建てられたんじゃないかあ?と思いました

あたし的には妄想として

「右は經津主命(フツヌシノミコト)

左は天兒屋根命(アメノコヤネノミコト)」と

させていただきま~す

 

万葉かなを多少調べているカミさんに協力してもらったんですけど

江戸時代の崩し文字でお手上げでしたあw

神社の公式図録とかには出ているのかもですけど

あれば購入しておけば良かったなあ

境内案内図には

安政五年の石塔としか書かれていません

諦めましたあ~(´д`;)

 

シカさんですよね?

秩父だったらオオカミかと思うぞw

シカと枝?最初梅かと思ったけど もみじかもねえ?

奥宮に戻ります

 

この後

御手洗池に行ったんですけど

こちらは次回に写真を上げる予定です

 

帰る前にもう一度奥宮様の前でしばらく滞在して

ぼおお~っと お宮を眺めて

お暇の挨拶をさせて頂いたんですけど

何の御しるしも頂けなくて

本殿様のほうが相性が好いのかなあと

ちぃと拍子抜けしましたねえ

普通 奥宮ってどちら様でも神秘的な風景と

清々しさを感じるんですけどねえ

 

本殿前の境内に戻りました

右手に参集殿

左に高房社(公式より)

武甕槌大神の葦原中国平定に大きく貢献した建葉槌神が御祭神です
古くからまず当社を参拝してから本宮を参拝する習わしがあります

最後にお詣りしちゃいましたあw

 

ここでカミさんがスケッチを始めたんで別行動に

2時間程

御朱印をお願いしたり あちこちをふらふらしました

 

御厨社様(公式より)

中祭以上の私祭の前に神饌を供えておまつりする習わしになっています

 

仮殿(公式より)

元和4年(1618)社殿造営のため徳川2代将軍秀忠公が奉納しました

まずこの仮殿に神様をお遷ししてから旧本殿を奥宮まで曳いていき

その跡地に新しい社殿を造営したのです

 

由緒書きを読んで 

建物だけなのね ふう~んと いい加減なお詣りをしたんですね

少しだけ御神気を頂けたような気がしましたけど

直射日光にやられていて気にもせず 早々に日陰に逃げましたあw

なので 写真も1枚しか撮りませんでしたけど

 

ブログ記事を書き始めて色々調べているうちに

とんでもないことが分かりました

奥宮様のご神体は今年2月に本殿改修工事の前にこちらに

ご鎮座されていたことが判明しましたあ

 

ああ~もしかして

あたしも少しは感じられるようになったのかもと?

ちょいと嬉しかったですねえw (ヾノ・ω・`)ナイナイ

でも

奥宮社前にちゃんと書いておいてほしかったなあ

見過ごしただけで

告知があったのかもですけどね?

みなさんお参りしていたし・・・

 

鹿島神宮様の旅はサラっと書くつもりでしたけど

書き始めてから4日目

いろいろと引っ掛かりが多くてまたまた

長くなってしまいましたあ

次回で完結したいと思います

 

長々とご覧いただき有難うございましたm(__)m