edd5a631.jpg御船 千鶴子(みふね ちづこ、 1886年7月17日 - 1911年1月19日、24歳没)は、透視能力を持つ超能力者として福来友吉博士に紹介された女性。熊本県宇土郡松合村(現宇城市)出身。漢方医・御船秀益と、その妻ユキの二女。

生まれつき進行性の難聴があり、成人するころには左耳が聴こえ辛かったという。繊細な感受性と豊かな情緒性を持っていたと言われる。また、観音菩薩を篤く信仰していたが、悲観的な感情にとらわれる面もあったという。

22歳のとき、陸軍中佐河地可謙と結婚。ある日、夫の財布からなくなった50円が姑の使っていた仏壇の引き出しにあると言い当てたことで、姑は疑いをかけられたことを苦にして自殺未遂を起こしてしまう。このことで結婚からほどなく離婚することになり実家に戻る[1]。

実家では義兄(姉の夫)、中学校の舎監・体操教員であった清原猛雄に「お前は透視ができる人間だ」との催眠術をかけられたところ、優れた結果が出たため修練を続けることとなった。その後、日露戦争時に第六師団が、撃沈された軍艦・常陸丸にたまたま乗っていなかった事を透視したり、三井合名会社の依頼で福岡県大牟田市にて透視を行い、万田炭鉱を発見して謝礼2万円(現在の価値で約2000万円)を得るなどした[2]。また、樹皮の下にいる虫の存在や海で紛失した指輪の場所を言い当てたりしたという。中でも清原は千鶴子に人の人体を透視して病気を診断させたり、手かざしによる治療を試みた[1]。

千鶴子の評判が広がり、熊本県立済々黌高等学校(当時は中学)の井芹経平校長が紹介し、1909年から翌1910年にかけ、京都帝国大学(現:京都大学)医学科大学の今村新吉教授(医学)や東京帝国大学(現:東京大学)文化大学の福来友吉助教授(心理学)などの当時の学者が研究を始めた[1]。

1910年4月10日、熊本の清原の自宅で福来と今村は清原の立会いのもと透視実験を行う。人々に背を向け、対象物を手に持って行う千鶴子の透視が不審を招くことに配慮した福来は背を向けても対象物を手に取らないで透視するようにさせたが、この方法では不的中に終わった。今度は清原が用意した名刺を茶壺に入れ、それに触れることをゆるして透視させると、名刺の文字を言い当てたという[1]。

千鶴子の透視能力を確信した福来は、この実験結果を心理学会で発表した[1]。これにより、「透視」という言葉が新聞で大きく取り上げられ、真贋論争を含め大きな話題となった。千鶴子のもとには、透視の依頼が殺到したほか、長尾郁子を初めとした「千里眼」の持ち主だと名乗る者たちが続々と現れた。

1910年9月15日、物理学の権威で東京帝国大学の元総長の山川健次郎が立会い透視実験を行った[1]。 千鶴子は鉛管の中の文字の透視を「成功」させたものの、それは山川の用意したものではなく、福来が練習用に千鶴子に与えたたものであったことが発覚。この不審な経緯に、新聞は千鶴子の透視能力について否定的な論調を強めて行った。

そんな中、千鶴子は長尾郁子の念写を非難する記事を見て、失望と怒りを感じ、清原に「どこまで研究しても駄目です」と言い放ったという[1]。翌1911年1月18日、重クロム酸カリで服毒自殺を図り、翌日未明に24歳の若さで死亡した。地元では自殺の原因は父親との金銭的なトラブルによるものだと見られていた[3]。新聞や世間からの激しい攻撃に耐えられず自殺した、と一般にいわれるが、この時点では彼女を非難する内容の報道はされていない。

彼女の「能力」の実在は極めて疑わしい。「透視」に成功した場合でも、意識が集中できないとして彼女は常に観察者に対して背を向けて「透視」しており、側面や正面からの観察は頑なに拒否していた。そして成功した場合は常に糊付けで封印された容器が多く、それも10分近く時間をかけている。これだけの時間をかければ、つばをつけて封をはがし、また貼り付けて体温で乾かすことが可能という実際の検証結果も示されている。福来博士も、観察者に背を向けていることが疑いを招くと考えて、再三千鶴子を説得していたが、千鶴子は応じていない。そもそも、医院を訪れる患者に対しては正面から向き合っており、能力を発揮するためと言って人に背を向けることからしておかしい。さらに、福来博士の最初の実験は、本人を目の前にしたものではない。19通の割り印つきの封筒を郵便で送って、中身を透視して返送してもらうものだったが、「透視」されて返却されたのは七通で、残りのうち三通は「うっかり火鉢に落として燃えた」、他は「疲れて出来ない」ということだった。疲れて出来ないなら、そのまま封筒を返送すればよいのだが、彼女はこの封筒を返却していない。封をはがして、元通りにするのに失敗したと見るほうが妥当である。また、問題になった鉛管実験の時、千鶴子は二つの鉛管を持っていたわけだが、千鶴子本人は、山川から預かった方は判らなかったので、代わりに練習用の方を透視したと語っている。しかし、練習用の鉛管だとは告げずに透視結果を報告しており、山川から預かった鉛管は最初隠していたため、ごまかしを試みて失敗した可能性が高い。その他の透視も、偶然か、普通の観察力の鋭さで説明がつく。

・ 終焉
この結果、超能力者達の研究に携わった科学者達もマスメディアの攻撃対象になったため、ついに研究者達は「千里眼は科学に非ず」という見解を公表した。この一方的な終結宣言によって事件は、幕引きを迎えることとなった。結果、「千里眼」「念写」の真偽が明かされることは永久に無くなった。

同様に、千鶴子が脚光を浴びた後に、日本各地に出現した「千里眼」能力者たちも、手品・ペテン師であるというレッテルを貼られ、一転して世の非難の的となってしまった。千鶴子・郁子に至っては死して猶、実家が批判にさらされる始末であった。

福来は、御船千鶴子・長尾郁子をはじめとして、彼が取り上げた人物以上に「イカサマ師」「偽科学者」などと攻撃を受ける事になり、東京帝国大学を辞職。その後、高橋貞子や月の裏側写真で知られる三田光一といった「千里眼」能力者を用いた実験を重ねるようになるが、以後の「実験」は、千鶴子や郁子の時のような、科学的な公開実験ではなくなり、また、福来自身も、科学的な手法によって「千里眼」能力は実証し得ないといった意味の事がらを公言するようになり、『心霊と神秘世界』を出版するなどオカルティズムへの傾斜を加速度的に深めて行くこととなる。


・ 影響
この事件はマスコミによるメディアスクラムの一例として、度々取り上げられる事がある。だが、言論による被害概念が当時はまだ確立されていなかった事を考慮すれば、当時のマスコミが執拗に御船千鶴子・長尾郁子を死後も面白おかしく報じたのは、無理からぬことであった。ゆえに、マスメディアに対しての名誉毀損などの訴訟は起こらなかった(それ以前に、彼女達女性には大日本帝国憲法の規定により、裁判権が無かった)。報道による人権侵害、という概念を確立させるには、当時のマスメディアは未熟ではあった。だが、そのマスメディアも、千鶴子の死に関しては新聞や世間からの激しい攻撃に耐えられず自殺した、と一般から非難されたせいもあって、死後、千鶴子を非難する内容を報じていない。

一方、日本国内における超能力研究は福来の辞職と同時に頓挫してしまい、ついには「千里眼は科学に非ず」という見解を公表せざるをえなくなる。マスコミが超能力者達の研究に携わった科学者達をも攻撃対象にしたためで、被害拡大を防ぐための苦肉の策ではあった。だが同時にこれは、科学者達が「千里眼」「念写」の真偽の科学的解明を永久に放棄した瞬間でもあった。これ以降、超能力は疑似科学の1分野として扱われるようになり、ついには疑似科学と言う概念自体が成立した。そして、今日に至っても、日本国内の超能力研究の大きな妨げとなっている。福来友吉も、超能力に関しては物理的検証といった方法論を放棄し、やがて、禅の研究など、オカルト的精神研究を行うようになる。さらに、「福来心理学研究所」を設立して独自の研究を進めるが、ますます世間の信用を削ぐこととなり、一般の注目を浴びる事は無かった。

そして現在、日本のみならず、海外に於いても超能力は疑似科学として取り扱われる事が多くなっている。新しい捜査の一手順としてFBIが超能力捜査を行うようになった、と度々テレビ番組で取り上げられる事があるが、超能力捜査の実態調査では、超能力捜査の参考性及び確実性は極めて低いことが明らかにされている。このことからも、超能力は疑似科学の1分野にすぎない、と言う考えは定着していると言える。