加藤は1972年の総選挙で初当選を果たすまで外務省中国課主席事務官をしていた関係で、中国については専門家ではあったが、北朝鮮についてはズブの素人に過ぎなかった。

 中国には何度も行ってはいたが、北朝鮮には一度も行ったことがなかった。それまで防衛庁長官、官房長官という役職を歴任していたが、関心を示したことはなかった。

しかし、村山政権が誕生して、自民党の政務調査会長になるや俄然北朝鮮に対する関心を示すようになったと永田町の情報通は指摘した。

 この頃の加藤紘一の狙いを、ある元外交官は次のように分析した。

「彼はこの頃から将来の総理を意識していた。そして自分が歴史に残る政治的な実績をあげるために、何をなそうかと考えた時に、彼の頭に浮かんだのが北朝鮮であったのでしょう」

「社会党の支持を取りつける意味からも、北朝鮮とのパイプは加藤にとっては絶対であった。特に村山連立政権の時代にそれを果たしたいというのが加藤の野望でもあったと思います」

 中国政府高官との人脈を持っていた加藤は、その筋から様々なルートを以って北朝鮮と接触を図るようになる。統一教会ルート(朴啓充女史)、帰化朝鮮人実業家ルート(吉田猛新日本産業社長)、今村富也(マスコミ情報研究会事務局長)ルート。

 この今村氏は金正日の義理の弟である張成沢労働党組織第一副部長及び崔龍海・金日成社会主義青年同盟委員長と直結していた。北朝鮮人脈を売りに複数の政治家と親しくしており、小沢一郎などとも懇意であった。

 加藤が北朝鮮との国交交渉再開の小道具に使おうとしたのがコメであった。加藤の出身地の庄内地方は日本でも有数のコメ作地帯でもある。

 加藤は当選10回(当時)のキャリアがありながら大蔵、外務、通産、建設、農林などの主要な閣僚経験がなかった。不思議と言えば不思議なことだったが、これには理由があった。

 加藤は大臣よりは党の役員をより重視していた。これは政界と一般社会では常識というか価値観がまるで違う。自民党においては大臣になるよりは、党の要職の方がはるかに力を持っているのだ。

 加藤が特にこだわったのは、「農林部会長」「自民党総合農政調査会長」などのコメに関するものだった。これらはコメの買い入れ価格や補助金を決めるにあたって影響力を発揮した。

 今回の谷垣財務相の総裁戦出馬における予想得票でも、谷垣氏の地元京都市よりも、推薦人に名を連ねた加藤紘一の地盤である山形県の方が票は多いと見られている。

 それは加藤が長年に渡って、このように自民党の農政族として力を持って来たからに他ならない。この自らの立場を有利に使いこなせるのが、余剰米250万?の北朝鮮への無償援助であった。

 加藤は余剰米の処分と北朝鮮利権、更には国交正常化という一挙両得を目指すことによって、より将来への足固めをしようと企てたのである。

 この当時、1993年の凶作において日本政府は緊急輸入したタイから30万?、中国から50万?のコメが余ってしまった。翌年は大豊作でそれは倉庫に眠ったままであった。