◆アナタハン島の惨劇
比嘉和子が夫とともに、アナタハン島というちいさな南国の小島でコプラ園をいとなむことになったのは、彼女が23歳のときのことだった。
当時、昭和19年。すでに戦火激しい時代だったが、この島にはまだそのかげりはなかった。
が、6月13日、島ははじめての爆撃を受ける。間のわるいことに、和子の夫と、隣家の上司、菊一郎の妻子はちょうどそれぞれの事情で島を離れていた。
戦火は島を焼きはらった。だが農園の一部とわずかな家畜は残っており、ふたりだけならなんとか生きていけそうな蓄えはぎりぎり残されていた。だが皮肉なことに、2週間ほどたったころ、島に31人の日本の男たちが上陸してくる。
彼らはそれぞれ陸軍、海軍、漁師と立場はさまざまだったが、物資調達の同じ船団に乗りあわせていたのだった。それが例の爆撃にあい、命からがらこの島に泳ぎついたのである。
和子と菊一郎はこれをこころよく迎えた。心細いこの状況で、同朋と会えたのは大きな慰めであった。
しかし食料はすぐに底を尽きた。
彼らは生きるためにコウモリやトカゲを捕らえて食った。料理は和子がした。まずは全員が生きることに必死だった。食べ物を求めるために駆けずりまわる生活に、身だしなみなど関係なかった。
原始人のような生活の中で、男たちはほとんど全裸、和子も上半身をあらわに腰ミノひとつという姿で島を歩きまわった。
しかしそんな生活にもいつしか馴れ、余裕が出てくると、彼らの間には奇妙な動きが見られるようになった。
土人の女を除けばたったひとりの日本人の女、和子をめぐっての、32人の男たちの静かな火花の散らしあいである。菊一郎が和子の夫ではないことが知れると、それはいっそう苛烈化した。
また、現地人から蒸留法を習ってつくったヤシ酒が、理性の糸を切るのを助長させた。
和子は自分に身の危険がおよぶ恐れがあることを感じとっていた。そのため彼女は菊一郎に助けを求めるかたちで、同棲をはじめた。
一緒に住むやいなや、菊一郎は和子を独占したがった。他の男と口をきいただけでも和子を殴り、蹴りとばした。そんな生活がつづくうち、和子は菊一郎の嫉妬がほとほといやになり、A男と関係してしまう。ふたりは駆け落ちし、山中深く逃げるが、すぐに連れ戻された。
これ以来、男たちの和子の奪い合いは激化した。
すでに日本は原爆投下され、終戦を迎えていたが、アナタハン島ではそんなことは知るよしもなかった。
昭和21年、和子は山中でB29の残骸を発見し、食料や水、そして3挺の拳銃を手に入れた。報せを聞いた男たちは喜んで物資を分けた。だが問題は拳銃だった。
3挺のうちひとつは銃口が詰まっていて使えなかったので、残る2挺は銃器に詳しいC男と、その親友のD男が管理することになった。
悲劇はここから始まる。
まず日頃から和子にしつこく言い寄っていたB男が、ちょっとしたいさかいでC男に射殺された。まわりの男たちはC男を非難したが、銃を取りあげはしなかった。
C男はやがて独裁者気取りになり、あからさまに和子にべたべたするようになった。
C男はある日、和子に、
「俺の女になれ。ならないんなら、菊一郎は殺す」と言った。
和子がそれをそのまま伝えると菊一郎はふるえあがり、
「あいつのとこへ行け。俺は殺されたくない」と言い放った。
和子はそんな彼を軽蔑しつつ、なぜかC男、D男、菊一郎との4人での生活をすることになった。
だがこんな不自然な関係が長く成立するはずがない。まず口論の末、D男がC男を撃ち殺した。生命の危険を感じた菊一郎は、先手を打って和子を品物のようにD男に譲りわたした。
ところが約3ヵ月後、D男は不審死をとげる。死因も犯人もいまだ不明である。
この死により、拳銃2挺はE男という男が所持することになった。彼は当然の権利のように和子にせまり、今度は和子、菊一郎、E男の3人の生活がはじまった。
1ヶ月ほど経ったころ、E男は菊一郎を射殺した。島には不穏な空気が満ちた。もはや銃を持つ者が和子をものにできる権利があり、殺すか殺されるか、という一触即発の雰囲気がたちこめていた。
純粋に男たちだけの生活であったなら、これほどの様相にはならなかったかもしれない。だが現実には女がいたのだ。それも、32人の男に対してたったひとりの女が。
だがまもなく、E男も不審な溺死をする。
この異常な事態の収拾のため、長老格で発言権のあったF男が、
「和子さんに正式な夫を選んでもらおう。そしてみんなでこれを祝福して、もう邪魔はいっさいしないと約束しあおう」
と言った。和子はもう男はこりごりだったが、仕方なく最初に駆け落ちしたA男を選んで結婚した。
拳銃はみんなの承諾を得て、海中深く沈めた。
しかしもう文明生活は彼らのうちから抜けきっていた。獣性をあらわにした男たちは結局和子をあきらめはしなかった。男たちは新居を覗き見、うろつきまわり、A男のいないところで和子を追いかけまわした。
和子はある日、逃亡した。もう耐えられなかったのである。
男たちは急に愛国心に目覚め、和子を投降させてなるものかと狂気のように島中を探しまわったが、彼女は逃げおおせた。
昭和25年、アメリカ海軍船「ミス・スージー」は腰ミノひとつの女が白い布を振って、しきりに助けを求めているのを発見する。このとき彼女は28歳になっていた。
しかし日本本土は彼女を好意的に迎えはしなかった。彼女を「女王蜂」と呼び、「アナタハンの毒婦」として猟奇的に扱った。和子の望んだ「真実の伝達」は、興味本位のマスコミと大衆によって完全につぶされた。彼女の帰国によって終戦を知り、帰国を果たした男たちはそれほど騒がれはしなかったが、和子の扱いはひどいものだった。
和子はマスコミに翻弄されるだけされたあげく、失意のうちに故郷へ帰った。
彼女が猟奇的にのみ取りあげられ、戦争の犠牲者として扱われなかったのは、かえすがえすも無念な話である