白楽天による『長恨歌(ちょうごんか)』は、玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスを悲しくも甘く歌い上げたものとして有名である。玄宗皇帝は、男30人、女29人の合計59人もの子どもを作っている。なかでも、武帝が愛した、武恵妃とのあいだにできた寿王は、次期皇帝と目され、その妃として選ばれたのが、一地方官吏の娘、16歳の楊玉環であった。
武恵妃が死ぬと、玄宗はそれに代わる女性を求めさせたが、後宮“3000人”の美女の中にも、ふさわしい女性を見出すことはできなかった。
740年秋、長安郊外の温泉保養地華清池(かせいち)で、玄宗は初めて楊玉環と会い、その魅力の虜となる。玄宗56歳、楊玉環22歳であった。
唐代の美人は、ふくよかな姿態と切れ長の目、小さな口を特徴とする。彼女も例外ではない。むしろ太り気味だったらしく、玄宗に「おまえならちょっとの風ぐらいなんともあるまい」とからかわれて彼女が怒ったという話も伝えられている。
いかに天下の皇帝といえども、息子の嫁をすぐさまとりあげて妃にすることは気がひけた。それでもなんとかしたい。帝はひとまず彼女を道観(道教の寺)に入れて道教の尼にした。つまり、彼女の自由意志で夫の寿王と離婚したという形式をとらせたのである。そして745年、玄宗は正式に彼女に女官の最高位である「貴妃」の称号を与え、後宮に迎え入れたのである。
玄宗は政治家よりも芸術家肌の男であった。自ら歌舞団を組織し、自作の歌舞音曲を演じさせた芸道楽だった。楊貴妃はといえば、これまた楽器はなんでもござれ、踊りを踊らせれば翔ぶように軽く舞い、もちろんその歌声も天下一品。おまけに教養に満ちあふれ、コケティッシュなしぐさで老いらくの玄宗を惑わせる。彼女が得意とした「霓裳羽衣(げいしょううい)」の舞いは、玄宗の編曲による。
玄宗は、彼女の望むことはどんなことでもかなえさせてやった。楊貴妃は茘枝(れいし=ライチ)という果物が好きであった。はるか南方、広東地方のの茘枝がうまいというので、そこから取り寄せることにした。長安から何千kmも離れた南から運ぶのだから、途中でぐずぐずしていたのでは風味が落ちてしまう。できるだけ速く、特急便で運送しなければならない。もうもうたる砂煙をあげて走り去る早馬を見て、人々はそれを急ぎの公用だと信じ、まさかあの楊貴妃個人の嗜好を満たすためだとは考えない。愛する妃のためにどれほど人民が苦しみ、公務が妨げられようと、玄宗はもはや意に介するところではなかった。
一時が万事、楊貴妃の出現により、それまで開元の治と呼ばれる善政をしいていた玄宗は、政治への情熱を失ってしまう。絶世の美女をさして、「傾城(けいせい)」とか「傾国」というのはこのことによる。
楊氏一族が軒並み高官にのぼると、その専横がしだいに反感を招くようになる。楊玉環が貴妃の座にのぼってからちょうど10年後、節度使の安禄山がついに兵をあげた。反乱の標的は、宰相楊国忠(楊貴妃のまたいとこ)であった。楊国忠は反乱軍の兵士に殺され、さらに国忠の長子、楊貴妃の姉たちも次々と殺された。
残る楊氏一族は、楊貴妃のみである。玄宗は、唐室存続のため、苦しい決断を下す。楊貴妃に死をたまう旨を伝えたのである。貴妃は、絹で首を絞められて 殺された。享年38歳であった。
安史の乱は、唐の社会を一変させる。優雅な貴族社会も、この乱によってピリオドが打たれることになったのである。