岡田 嘉子(おかだ よしこ、1902年4月21日 - 1992年2月10日)は、広島県広島市細工町(現在の中区大手町)生まれの日本の女優・アナウンサー。大正~昭和初期、サイレント映画時代のトップスター映画女優。奔放な恋愛遍歴とソビエト連邦へ亡命するなど波乱の生涯を送ったことでも知られる。
[編集] 極寒のソビエト逃避行
1936年(昭和11年)日中戦争開戦に伴う軍国主義の影響で、嘉子の出演する映画にも表現活動の統制が行われた。過去にプロレタリア運動に関わった杉本は執行猶予中の身で、召集令状を受ければ刑務所に送られるであろう事を恐れ、嘉子と杉本は二人の愛をつらぬくためソビエト連邦への亡命を決意。同年暮れ12月27日、二人は上野駅を出発、北海道を経て翌1938年(昭和13年)1月3日、二人は厳冬の地吹雪のなか、北緯50度線上にあるの樺太国境を超えてソビエト連邦に越境する。意外なカップルのセンセーショナルな駆落ち事件として連日の新聞に報じられ、日本中を驚かせた。不法入国をした二人にソ連の現実は厳しく、入国後3日で嘉子は杉本と離されKGBの取調べを経て、別々の独房に入れられ二度と会う事は無かった。日本を潜在的脅威とみていた当時のソ連当局は、思想信条にかかわらず彼らにスパイの疑いを着せたのである。杉本は翌1939年(昭和14年)スパイ容疑で銃殺刑となった(このことは嘉子の晩年になって明らかになり、それまでは「獄中で病死」とされていた)。また彼らの亡命は、世界的演出家メイエルホリド粛清の口実の一つにされた。嘉子は労役三年の刑の後1940年(昭和16年)釈放されモスクワに近いチカロフ(現・オレンブルグ)の町に送られて最低限の生活を保証され、1941年(昭和17年)独ソ開戦後は手不足で看護婦をしていたと自伝に書かれているが、実際はその後モスクワの独房に10年近く幽閉されていたことが、1990年代前半に岸惠子とともに現地取材をしたNHKにより確認されている。釈放後も日本へはあえて帰国しなかった。戦後、モスクワ放送局に入局。日本語放送のアナウンサーを務め、11歳下の日本人の同僚と結婚、穏やかに暮らす。また演劇者として舞台に再び立ってもいた。1952年(昭和27年)訪ソした参議院議員が、嘉子が健在であると日本に伝え、にわかに日本で関心が高まる。東京都知事の美濃部亮吉ら国をあげての働きかけで、1972年(昭和45年)亡くなった夫の遺骨を抱いて34年ぶりに日本へ帰国。ここから13年間日本で暮らし日本の演劇界に復帰。また「男はつらいよ・寅次郎夕焼け小焼け」他3本の映画と数本のテレビドラマや「徹子の部屋」などに出演した。
しかし、1986年(昭和61年)ソ連でペレストロイカによる改革が始まり「やはり今では自分はソ連人だから、落ち着いて向こうで暮らしたい」と再びソ連へ帰る。
1992年(平成4年)モスクワの病院で、誰にも看取られることなく死去。89歳の波乱の生涯を終えた。