坂本龍馬(1835~67)を思い続け、生涯独身のまま世を去った女性剣士、千葉佐那(1838~96)。NHK大河ドラマ「龍馬伝」で女優の貫地谷 (かんじや)しほりさんが佐那役を演じて以来、甲府市の清運寺にある佐那の墓を訪ねる人が急増している。田中宏昌(こうしょう)住職は「佐那のいちずな姿 が人をひきつけるのでは」と話している。【水脇友輔】
清運寺の一角にある佐那の墓石には「千葉さな子墓」「明治二十九年十月十五日逝 坂本龍馬室」と刻まれている。「龍馬室」とは龍馬の妻という意味。佐那 は晩年、周囲に「龍馬のいいなずけだった」と語っており、彼女を思いやって記されたとみられる。
ドラマ「龍馬伝」で貫地谷さんは美しく勝ち気な佐那役を演じている。田中住職によると、昨年1年間の墓参者は200人ほどだったが、今年はドラマが始 まった1月から2カ月間で既に400人近くが訪れた。以前は剣道の必勝祈願に来る人や熱狂的な龍馬ファンがほとんどだったが、最近は高校生から高齢者まで さまざま。龍馬の故郷である土佐・桂浜の小石や龍馬の人形を供える人もいるという。
佐那は北辰一刀流の開祖、千葉周作の弟定吉の長女。同流の免許皆伝を受けるほどの腕前だった。龍馬は1853(嘉永6)年に江戸にあった定吉の道場に入 門し、彼女と出会ったとされる。1863(文久3)年には姉の乙女にあてた手紙で「この話は人にゆ(言)はれんぞよ。すこしわけがある」と前置きし、佐那 について「馬によくのり剣も余程手づよく、長刀(なぎなた)も出来、力はなみなみの男子よりつよく」、初恋相手とされる平井加尾より「かほ(顔)かたち少 しよし」と記していた。
龍馬が暗殺された後、佐那は家伝だった灸(きゅう)を生かし東京・千住に「千葉灸治院」を開業。自由民権運動家の板垣退助も治療した。板垣の紹介で甲府 出身の自由民権運動家、小田切謙明も治療し、小田切夫妻と懇意になった。58歳で病死し、東京の寺に埋葬されたが、無縁仏となることを哀れんだ謙明の妻豊 次が分骨して小田切家の菩提(ぼだい)寺である清運寺に墓を建てたと伝えられる。
千代田区神田錦町2-9 神田錦町郵便局前
坂本龍馬 は、千葉定吉道場に寄宿し、千葉定吉の娘、佐那子と婚約しました。千葉佐那子は、美人で、教養もあり剣術にも秀でていました。坂本龍馬 の好みの女性のタイプは、男勝りな育ちのよい美人だったようです。坂本龍馬 没後、1877年(明治10年)、学習院(華族学校)が開校。教養のあった千葉佐那子は、学習院女子部舎監として奉職しました。
(新人物往来社『坂本龍馬伝』より)

千葉定吉と千葉重太郎の墓
千葉定吉(貞吉とも)は、玄武館の千葉周作の実弟で、周作とともに玄武館の創設と運営に尽力した。その後、自身も桶町に道場を開いた(小千葉道場とも呼ばれた)。門下には伊藤甲子太郎や坂本龍馬がいる。重太郎は、定吉の長男である。妹は千葉佐那子。龍馬とともに勝海舟を斬りに行って、逆に感化されて門弟になってしまったというエピソードは有名。千葉重太郎は維新後、北海道使権大主典として北海道開拓に尽くし、のちに京都府御用掛。


坂本竜馬と婚約し、生涯竜馬を愛したとされる千葉佐那(1838~96年)が、武芸に優れ、とても美人だったと愛媛県宇和島市の宇和島伊達文化保存会が所蔵している宇和島藩8代藩主伊達宗城の記録「稿本藍山公記」に記載されていることが分かった。
記事本文の続き 「稿本藍山公記」には宗城の日記や藩の記録が編年体で収めてある。1856年6月19日の部分で、伊達家の姫君に剣術を教えていた19歳の佐那について「左那ハ、容色モ、両御殿中、第一ニテ、薙刀ニモ、熟達シ」と記していた。
竜馬の研究で知られる京都国立博物館学芸部室長の宮川禎一さんが佐那に関する史料を探していて確認。 佐那は「北辰一刀流」を開いた千葉周作の弟、定吉の娘。定吉の道場でけいこしていた竜馬と知り合った。
清運寺の一角にある佐那の墓石には「千葉さな子墓」「明治二十九年十月十五日逝 坂本龍馬室」と刻まれている。「龍馬室」とは龍馬の妻という意味。佐那 は晩年、周囲に「龍馬のいいなずけだった」と語っており、彼女を思いやって記されたとみられる。
ドラマ「龍馬伝」で貫地谷さんは美しく勝ち気な佐那役を演じている。田中住職によると、昨年1年間の墓参者は200人ほどだったが、今年はドラマが始 まった1月から2カ月間で既に400人近くが訪れた。以前は剣道の必勝祈願に来る人や熱狂的な龍馬ファンがほとんどだったが、最近は高校生から高齢者まで さまざま。龍馬の故郷である土佐・桂浜の小石や龍馬の人形を供える人もいるという。
佐那は北辰一刀流の開祖、千葉周作の弟定吉の長女。同流の免許皆伝を受けるほどの腕前だった。龍馬は1853(嘉永6)年に江戸にあった定吉の道場に入 門し、彼女と出会ったとされる。1863(文久3)年には姉の乙女にあてた手紙で「この話は人にゆ(言)はれんぞよ。すこしわけがある」と前置きし、佐那 について「馬によくのり剣も余程手づよく、長刀(なぎなた)も出来、力はなみなみの男子よりつよく」、初恋相手とされる平井加尾より「かほ(顔)かたち少 しよし」と記していた。
龍馬が暗殺された後、佐那は家伝だった灸(きゅう)を生かし東京・千住に「千葉灸治院」を開業。自由民権運動家の板垣退助も治療した。板垣の紹介で甲府 出身の自由民権運動家、小田切謙明も治療し、小田切夫妻と懇意になった。58歳で病死し、東京の寺に埋葬されたが、無縁仏となることを哀れんだ謙明の妻豊 次が分骨して小田切家の菩提(ぼだい)寺である清運寺に墓を建てたと伝えられる。
千代田区神田錦町2-9 神田錦町郵便局前
坂本龍馬 は、千葉定吉道場に寄宿し、千葉定吉の娘、佐那子と婚約しました。千葉佐那子は、美人で、教養もあり剣術にも秀でていました。坂本龍馬 の好みの女性のタイプは、男勝りな育ちのよい美人だったようです。坂本龍馬 没後、1877年(明治10年)、学習院(華族学校)が開校。教養のあった千葉佐那子は、学習院女子部舎監として奉職しました。
(新人物往来社『坂本龍馬伝』より)

千葉定吉と千葉重太郎の墓
千葉定吉(貞吉とも)は、玄武館の千葉周作の実弟で、周作とともに玄武館の創設と運営に尽力した。その後、自身も桶町に道場を開いた(小千葉道場とも呼ばれた)。門下には伊藤甲子太郎や坂本龍馬がいる。重太郎は、定吉の長男である。妹は千葉佐那子。龍馬とともに勝海舟を斬りに行って、逆に感化されて門弟になってしまったというエピソードは有名。千葉重太郎は維新後、北海道使権大主典として北海道開拓に尽くし、のちに京都府御用掛。

千葉定吉(貞吉とも)は、玄武 館の千葉周作の実弟で、周作とともに玄武館の創設と運営に尽力した。その後、自身も桶町に道場を開いた(小千葉道場とも呼ばれた)。門下には伊藤甲子太郎 や坂本龍馬がいる。重太郎は、定吉の長男である。妹は千葉佐那子。龍馬とともに勝海舟を斬りに行って、逆に感化されて門弟になってしまったというエピソー ドは有名。千葉重太郎は維新後、北海道使権大主典として北海道開拓に尽くし、のちに京都府御用掛。

坂本竜馬と婚約し、生涯竜馬を愛したとされる千葉佐那(1838~96年)が、武芸に優れ、とても美人だったと愛媛県宇和島市の宇和島伊達文化保存会が所蔵している宇和島藩8代藩主伊達宗城の記録「稿本藍山公記」に記載されていることが分かった。
記事本文の続き 「稿本藍山公記」には宗城の日記や藩の記録が編年体で収めてある。1856年6月19日の部分で、伊達家の姫君に剣術を教えていた19歳の佐那について「左那ハ、容色モ、両御殿中、第一ニテ、薙刀ニモ、熟達シ」と記していた。
竜馬の研究で知られる京都国立博物館学芸部室長の宮川禎一さんが佐那に関する史料を探していて確認。 佐那は「北辰一刀流」を開いた千葉周作の弟、定吉の娘。定吉の道場でけいこしていた竜馬と知り合った。