とおもったのでこぴぺ

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http://www.yasuda-u.ac.jp/eibun/message/message-0106/frameleft.html

1つ質問です。この文章を読んでいる皆さんはどのようなバックグラウンドをお持ちでしょうか?私はこの文章を書きながらまだ見ぬ皆さんの姿を頭に描いています。安田女子大学のホームページにたまたま立ち寄った方、検索サイトからなぜかここに来てしまった方、はたまた在籍中の学生さん、いろんな人がいるのでしょうね。

最近、ある本を読んでいると、大学生に対する調査で自分のイメージを「まだ子どもである」と考えてはいるが、同時に「自分はもう若くない」とも考えているという記述がありました。二十歳前後の学生さんに「自分はもう若くない」と言われたら四十手前の私なんざどうなるのかと憂鬱になるのですが、そういう発言は彼らにとってそれほど違和感がないのかもしれません。しかしそんな人には私はいつもこう言います。「そんなに落ち着いてどうするんよ。もう少し気合い入れて生きないとあかんよ。」

皆さんはこれまで友達と議論していて(というか熱心に議論したことありますか?)、負けて悔しい思いをしたことはありませんか?私は議論をするとしょっちゅう負けます。その度に「自分は頭が良くないのかなあ」と思ってしまいます。しかし思うに、議論に勝ってばかりの人って実は世界が狭いのではないでしょうか。自分で勝手に「勝ちライン」を引いてしまって、その中で「勝負あった!」と宣言しているような気がします。大切なのは、一見負けたように見える議論の中でも言葉にならない何かもやもやしたものを言語化できる力をつけることだと思います。皆さんが直感的に「あれっ?」と思ったことを大切にし、それを言葉を介して他の人に(賛成はされないにせよ)理解されるところまで内容を高めていくことが大切ではないでしょうか。

最近は「なんとなく~だから」という雰囲気で物事が決められていると感じることが多くなってきました。私はこの現状に対しては非常にストレスを感じています。「なんとなく」という気持ちが蔓延している状態はなんとなくいやな気持ちになります。(^^;;


→みーつー(・∇・#)

でもそれやってたら大学のあほどもに

精神病扱いされたよ!

 「なんとなく」で落ち着くことなく、しつこく知的見栄っ張りとして言語で語り尽くし、それによって言語の限界を自覚していく。一見むなしい試みを続けることがむなしさから遠ざかる道ではないでしょうか。限界を意識しつつ、その限界と格闘する覚悟が必要です。

皆さん、勉強なんてつまらないと思うかもしれません。では一生、人から与えられたものを再生産するだけが楽しいのでしょうか。ワイドショーのコメンテーターの言葉を自分の言葉として再生産する。ブランドに対する集団的信仰心を「個性の表出」として再生産する。それって「自己の発露」のように見えますが、実は無意識のうちに集団的信仰に帰依しているだけのような気がしてなりません。いかに自分を相対化しつつ、集団に所属させるか、これは大きな課題のように思われます。

これを読んでいる皆さんには、自らの価値観に安住することなく、理性的な視点で自分の置かれた位置を見つめてほしいと思います。そのためには本を読み、考え、多くの人々と議論を深めることが大切です。どうか良い意味での「知的見栄っ張り」でいてください。