石田三成を訪ねる旅の続き(番外編?)です。

前回、訪ねた城菩提院(じょうぼだいいん)は、三成の掟書が残されている貴重なお寺であるとともに、多くの戦国武将とも関わりが深いお寺です。



お宝もたくさん、伝わっています。

石田三成祭に合わせて、寺宝展が開催されていました。私のお目当ては、もちろん、石田三成の掟書。こちらは、前回のブログに書いたので、ご覧いただけたら嬉しいです。




関ヶ原合戦で三成を裏切り、東軍に寝返った、あの小早川秀秋ともつながりがあったそうで、ミツナリストの私としては、複雑な気持ちですが、ここは、大人になって(?)、副ご住職様から聞いたお話をご紹介させていただきます。


① 関ヶ原合戦後、小早川秀秋に戦勝のお祝いとしておはぎを届けたとされる、お盆が城菩提院に残されている。(しかと、この目で拝見しました←ちょっと怖い目で睨んでいたかも)


当時、おはぎを作るには、相当な時間がかかるはず。手間暇かけないと作れないものを、わずか半日で終わった戦いの場にすぐに届けたということは、戦う前から、東軍側が勝利するということが分かっていて、おはぎの準備をしていたと考えられる。


つまり、小早川秀秋は、戦いの途中で寝返ったのではなく、最初から東軍側につくことを決めていたのではないか、と。


俗説では、どちらにつくか迷っていたが、家康側の大砲による脅しに驚き、東軍に寝返ったとされている。しかし、激しく戦っている最中に、家康の陣地から発砲して、とても聞こえるとは思えない、と話されていました。


現地で聞く話しに、恨みも忘れて、深くうなずく私でした。


②小早川秀秋の禁制

戦になっても、この地域で乱暴狼藉を働いてはいけない、とする小早川秀秋が発した触書が残されている。


そのことから、この辺りは、小早川秀秋をはじめ、さまざまな権力が入り混じった土地だったということが考えられる。


三成の掟書も残されている、同じお寺に、小早川秀秋の触書も残されていて・・・。領民を思う気持ちに変わりはないのかもしれないな、と思いました。


案外、小早川秀秋もいい人だったのかも???

いや、いや。そこまでは、寛大な気持ちになれない、ミツナリストの私でした・・・。