石田三成を訪ねる旅の続きです。

続きといっても、随分、間があいてしまったので、再開といった方がいいかもしれません・・・😆

旅に出たのは、昨年(2023年)の夏。9月、10月、11月とブログを細々と書いているうちに、いろいろと慌ただしくなってしまい、中断しておりました。


しかも、続きを書こうと思っているうちに、実は、もう一度、行ってしまったのでした‼️ 三成ゆかりの地に。


具体的には、三成の掟書がある城菩提院(じょうぼたいいん)と、三成生誕地とされる石田会館に。


一度めは、夏の旅行。二度めは、秋に行われた石田三成祭に参加するために✨


石田三成祭が毎年行われているのは、知っていましたが、参加するは初めて❣️

いろいろと忙しいとか言い訳しながらも、ちゃっかり、三成祭には、参加しているんですね〜これが😊


そのときの様子は、おいおい書くとして、今回は、城菩提院(じょうぼたいいん)についてご紹介させていただきます🤗


最初に夏に行ったときは、残念ながら建物は閉まっておりましたが、夏の山と空を背景に、凛と佇む姿がとても印象に残りました。





この城菩提院(じょうぼたいいん)は、天台宗の開祖最澄が談義所を建てたことにはじまり、のちに延暦寺の別院になったそう。『名だたる戦国武将が保護した天台宗の学問所』と書かれていました。




他にも興味深いことが、いろいろ書いてありました。織田信長、豊臣秀吉、小早川秀秋が泊まったとか、信長や家康が寺領を寄付し保護していたとか。家康の懐刀と言われた二十世天海大僧正が住

職を務めたことなど。


看板には書いてありませんでしたが、でも、私は知っています‼️

ここには、三成が発した掟書が保存されていることを✨✨✨


いつか、その掟書を見たい〜、と思って泣く泣く後にしました。

そして、数ヶ月後・・・、念願が叶いました〜✨

嬉しい〜💖

石田三成祭に合わせて、石田三成掟書が公開されていたのです❣️ 


撮影は残念ながら禁止だったので、いただいたパンフレットの写真をアップさせていただきますね🤗





三成が佐和山領内に発したとされる13ヶ条からなる掟です。


上段が原本の写真で、中段が翻刻、下段が現代語訳になっています。



最後には、三成の花押(サイン)があります❣️



三成の掟書は、大学の卒論で取り上げた内容なので、感動ひとしおです✨

本では何度も目にした掟書の原本を、この目で見ることができ、本当、幸せでした💕


この掟書の特徴は

かな(ひらがな)が多く使用されている

→これは、百姓にも読みやすいように工夫されたものだと言われています。(さすが三成さま✨)


②第11条で、百姓が、直訴できる権利を認めている。(ただし、違う解釈もあり)

【原文】『何事によらず 百姓めいわく仕儀あらば そうしやなしにめやすをもって にわそせう可仕候』

【現代語訳】何事によらず百姓が迷惑することがあれば、奏者〈そうしゃ〉なく目安をもって訴え出るべし(違う解釈では、[奏者なく]を[容赦なく]としており、城菩提院のパンフレットもそうなっていましたが、小和田哲男先生を始めとする多くの研究者たちは、[奏者=取次人]と訳しています。


つまり、取次人を介さないで、直訴できる権利を定めた画期的な内容なんです‼️

[目安]といえば、徳川吉宗の目安箱が有名ですが、その先駆けといえる制度を三成がすでに、定めていたのです✨(優秀で慈悲深い三成さまならではですね💕)


この掟書が出されたとされるのは、文禄5年(1596年)。当時、これほどまでに、きめ細やかで綿密な規定を出した領主は見当たらないと、多くの研究者が、三成の領主としての手腕を高く評価しています。


城菩提院では、副ご住職様が案内してくださいました。一緒に見学した方も、熱心に三成掟書を見られていて、お連れの方に詳しく説明していました。三成の旗印とされる『大一大万大吉』のトートバッグを下げていた男性で、副ご住職様と親しくお話しされていたので、三成関係者の方だったのかもしれません。


その方も、おっしゃっていたのですが、関ヶ原合戦とかだけじゃなくて、三成の掟書をドラマとかでも取り上げてほしい、と。私も全く同感です‼️


三成の良さは、そういうところにあると私は信じているのです✨✨✨


領民に優しく好かれる城主だったのではないか、と思います。


その思いは、三成祭に参加して、ますます強くなりました💖

それは、後ほどに🤗💕