パースで新しいビジネスに挑戦しては失敗し、また挑戦しては玉砕する。
 

そんなことを繰り返していたころ、大学時代の友人がパースへ遊びにやって来ました。

 

彼は九州の地方都市で、トヨタ自動車の販売店を営む会社に勤めていました。
社長の妹と結婚していた関係で、会社では役員として働いており、小さな会社ながらも、それなりの実権を持って活躍していたようです。

 

ところが人間というものは、順調な時ほど足元が見えなくなることがあります。
彼もつい背伸びをして、社内の勢力争いに加わってしまった。
そのうえ不祥事まで明るみに出て、結果として左遷され、不遇をかこつ身となっていました。

 

そんな気分転換も兼ねて、彼はパースへやって来たのです。

 

大学時代に一緒に遊んだ仲ですから、遠慮はありません。
 

彼は私にこう言いました。

「君が事情の分からぬ外国で、新しい事業を軌道に乗せようと苦労しているのは、見れば分かる。俺も身内の会社で勢力争いに負けて、今は面白くない立場にいる。ここは二人で力を合わせて、中古自動車販売をやってみないか」

 

彼は自動車販売の世界にいた男です。
中古車の仕入れ、日本からパースへの輸出、さらには優秀なメカニックの派遣まで手配できると言いました。
日本車の品質と、日本人メカニックの技術を売りにすれば、パースでも十分勝負になるというのです。

 

私はもともと、決断と行動だけは早い男です。
良く言えば行動派、悪く言えば猪突猛進です。
話がまとまると、すぐに動き出しました。

 

パースは車社会です。
中古車販売の免許は必要でしたが、申請そのものはそれほど難しいものではありませんでした。
販売免許の申請と同時に、トヨタ・ソアラや日産GTRなど、日本の人気車を輸入するための手続きも進めました。

 

幸い、輸入の許可も取れました。
日本人メカニックのビザも、懇意にしていたコンサルタントに頼み、何とか取得することができました。

 

さらに国道沿いの良い立地に、中古車展示場と修理工場も借りました。
看板を出し、車を並べ、メカニックも呼ぶ。
形だけ見れば、いかにも事業が始まるという雰囲気でした。

 

ただし、現実はそう甘くありません。

私自身、潤沢な資金を持っていたわけではありません。
それでも計画が決まると、前へ前へと進む性格ですから、少ない資金をやりくりしながら準備を続けました。

 

一方、我が学友も、会社を半分クビになったような状態でした。
給料も十分にはなく、車の仕入れ資金にも四苦八苦していました。
結局、私も手元の少ない資金から車の購入代金を工面し、日本へ送金することになりました。

 

もう一つの大きな誤算は、日本からパースへ送られてきたメカニックでした。

 

彼はたしかに腕は良かった。
現地のメカニックが驚くほどの技術を持っていました。
日本の自動車整備の水準の高さを見せつけるような、見事な仕事ぶりでした。

 

しかし、問題は人間性でした。

 

自分の腕に自信があるのは結構ですが、それが過信になると厄介です。
勤務態度は悪く、遅刻や欠勤を繰り返す。
おまけに酒乱の気もあり、仕事場の空気を乱すようになりました。

 

技術があっても、商売は一人では成り立ちません。
お客様がいて、仲間がいて、約束があって、初めて成り立つものです。
いくら腕が良くても、信用を壊す人間を置いておくわけにはいきません。

 

仕方なく、私は彼を解雇しました。
ところが彼はそれを逆恨みするようになり、話はさらにややこしくなっていきました。

 

こうして、大学時代の友人と始めた中古自動車販売のビジネスも、結局はうまくいきませんでした。

 

今思えば、事業の計画そのものは、決して悪くなかったのかもしれません。
日本車の人気はありましたし、日本人メカニックの技術も確かに強みでした。
しかし、商売というものは、アイデアだけでは動きません。
資金、人材、信用、継続力。
そのどれか一つが欠けても、簡単に崩れてしまう。

 

私はまた一つ、痛い授業料を払うことになりました。

 

パースでの私の商売人生は、成功より失敗の方が多かった。
それでも不思議なもので、失敗のたびに人を見る目、金を見る目、自分を見る目だけは、少しずつ養われていったように思います。

 

大学時代の友人との共同事業。
それは夢のある話で始まり、現実の厳しさで終わった、私の数ある失敗談の一つです。