№84 合角ダムから旧倉尾中学校への廃校ぶらり⑧-弐2
2020.9.19

 

 ⑧の続きです。  左の写真で終わっていました。 この撮影場所から右に50度ほど振り返ると右の写真。坂道に立ってサツエうしているので、写真の右側に体育館があります。さて何の風景かというと「校庭」でしょう。中学校の校庭としては狭く感じられますが山の中では地形的にこれでも広く確保できた、そんな場所に学校を建てたという事でしょう。もっと狭い校庭は、これも廃校となったときがわ町立椚(くぬぎ)平小学校です。今後紹介しますが、校庭から眺める山並みは自然の中の学校を体感させます。

   

 そしてふれあい坂の記念碑を少し上がった所から撮った写真。校名のプレートは外されていますが立派な校門です。上がってみたところもう木が茂っていましたが平地がありました。校舎が立っていたところでしょう。少しでも条件のいい場所を利用して、校舎、校庭、そして後に体育館を建てたのでしょう。

 色々思いを馳せるにつけ生徒が通っていた時の学校を訪れてみたいと思うのは私だけではないでしょう。

 「ふれあい水」は中学校より更に山を登ったところにある。よく紹介される「毘沙門水」より先の水。観光化した場所よりこんな方が好きだから載せてみた。昔からこの地区の生活用水として利用されていて、道路拡張工事で枯れてしまうかと思われたという。現在も現役でホースから勢いよく水が出ているがそのまんまの日常。私の感覚してはもったいない。バイクで結構な坂を登ってきたが、【自転車は一列で 倉尾中学校】という標識が立っていた。下りもブレーキかけ続けで怖いが、この坂をほんとに登ったのか…。平地に住んでいる私など、入間川にかかる八瀬大橋を渡るのも息が上がるのに。旧倉尾中学校について理解を深める貴重な発見となった。

 さて、バイクの旅て見つけた倉尾中学校はこれだけではない。藤尾体育館(旧倉尾中学校)、毘沙門水、丸福商店(林道長久保線との分岐)、を下り日尾地区に入る。右に「小鹿野町ふるさと館」を見て少し進むとある。小学校の校舎らしきもの、体育館は県道282号に

接しているのですぐわかる。駐在所が目印だ。その小学校を見に行って発見。おれは持っていると思った一瞬だ。

  

  旧倉尾小学校の裏に発見した。沿革碑から変遷を想像してみよう。昭和22年創立。人数自然豊かな地理から、小学校地に倉尾中学校の分校を設置。昭和26年本校、分校を統合し倉尾に新校舎を作る。

 これが先に紹介した校庭と校舎跡地だろう。そして平成4年この新校舎に移ることとなる。

 因みに、藤倉、日尾の地名は現在も残るが、碑にある町村合併の言葉よりたどってみる。

 

・1989年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、藤村,日村が合併し秩父郡倉尾村

 成立する。

・1956年(昭和31年)3月31碑 - 小鹿野町、三田川村と(倉尾村が)合併し小鹿野町を新設す

る。

 校舎の写真、は職員玄関方面から撮ったのではないかと思われる。写真には写っていないが小山の掲げに玄関らしきものがある。現在この校舎は高齢者のデイケアー施設として利用されているので撮影ははばかれた。その下は生徒の駐輪場だ。確認できると思うが、気の横板にある白いものは利用者の苗字が書かれた懐かしい赤や青の色枠のラベルシートだ。今も読み取れる。

 それにしても、採光を考えた設計なのだろうがしゃれた校舎だ。これも小山に隠れて見えないが各階のベランダは鉄格子ではないモルタル?に装飾のあるものだった。(写真は後掲)

 平成13年度をもって生徒減により廃校、小鹿野町立小鹿野中学校に統合された。

 

 このすぐ前に隣接して旧倉尾小学校がある。

  

左 職員玄関方面       教室 下に児童玄関が見える 体育館 多分校庭 中学校と共有だろう。

 旧倉尾小学校には沿革碑が2種類建立されている。一つは開校100周年を記念して建てられている。

 写真では読み取りずらく、編集するのも厄介なので、主に伝えたいことを一部抜粋します。

前書きにはこうある。

【明治5年学生が頒布され当倉尾においては明治6年9月、藤倉、日尾両地区に小学校を設置。自来両校相まって100年の歳月に渡り倉尾教育の伝統をつちかい時運に即し発展隆昌して今日に至る。

 昭和45年4月東西両小学校が統合し小鹿野町立倉尾小学校が設置され昭和46年5月新築校舎完成す。時あたかも創立100周年にあたるのでここにその沿革の大要をしるしその足跡をとどめる者なり。】  以下 記の中から一部を紹介する。

・明 6.9.7   日尾小学校(菩提寺)   ・明 6.9.1   藤倉小学校(寺院 民家)

・明 19.?.1  修進学校日尾分校    ・明 19.4.1  修進学校(長泉寺)

・明25.4.1    倉尾村立日尾尋常小学校   児童数 49

・明.25.4.1    藤倉尋常小学校        児童数  49 

 

   2001.3.14 埼玉新聞

 2つ目の沿革碑は昭和45年以降のもので、一つ目の隣に設置されている。平成16年度を持って廃校、小鹿野小学校に統合された。

 合角ダムの先にこのような文化のある地域と歴史のある学校があったことを大切に記録しておきたい。

 一応ここで倉尾中学校は終了。

 学校沿革史は永年保存なので廃校についても教育委員会には保管されているだろうが、現在のネット社会ではもったいない気がする。

 学校は地域の期待を担い地域と共にあったことを考える時、教委に紙で残っているだけではいかがなものかと思う。

 今統廃合が進み当時の姿が見られなくなり、地域の人々の記憶から遠ざかりつつある。統廃合の大きな原因は児童生徒数にあるが、地域と共に教育を担った学校の歴史は、そういう学校があったということは人々の記憶に残しておきたいものだ。

 学校の歴史には地域の歴史を共に担った歴史があると思うからだ。詳しくなくてもいいから沿革史や当時の写真、閉校式程度の正しい情報は誰でも見られる公共の意図のある情報があった方がいい。

 旧倉尾中学校の情報がネットの情報で分散、断片的なのは教育委員会の地域や地域の歴史、地域の教育史について無責任なのが原因なのが分かる。

 沿革史の中にある町村合併の歴史、その影響による統合の経緯を示していない為他の地域から訪れた人の理解が断片的になってしまっている。単に児童生徒減のみが理由ではない。市教委のHPに写真付きで掲載するなど大した手間ではないはずだ。

 時がたてば建物は朽ち、雰囲気は薄れ、人々の記憶からも失われてしまう。

 自分の生まれた地域の歴史を、学校の果たした役割やそこで学んだ児童生徒の様子と共に理解することは、地域を大切にするために大切な事であろう。地域の歴史に、それが地方であればあるほどが学校が果たした役割、地域の人々と学校が歩んだ歴史はより深いものと考えるからである。

 私は、いくつかの廃校を訪ねているうちに、ただただ少子化だけが統廃合の理由だけだとは考えなくなってきた。

 それは何かというと、高度経済成長時以来、価値観が狭くなり、多様性の無さが進み、多様性を認めることも、多様性を自負する環境もなくなってきているからではないかと考えるようになった。

 人口の一極集中が祖の最たるもので、経済が国際化し、貿易が盛んになりより安い外国産を大量輸入し利益を上げる産業構造となり、昔からの産業、職業では生活が困難となり所謂地方から人、若者が減ってしまった。

 地域の学校で学び、共に育ち、地域一員として地域を担った人々がいること、その人たちを大切に思うことが、地域の歴史を正しく伝えることになると思う。 

 地域をつなぐ282号から体育館、校庭、校舎をつなぐ坂道に「ふれ坂」と名付けた職員、保護者がいたのですから。 

 

参)小鹿野町倉尾中学統廃合問題titibu.sakura.ne.jp/giin/kurasetu.htm

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