サザエさん―面白い落ち(60)
スッポンに噛みつかれたら、そのまま水につけてください。するとスッポンは、離してくれるはずです。
朝日文庫版39巻〔63頁〕・昭和44年
『いかつい体の中年の男性が、スーツの上着の左のポケットに左手を突っ込み、眉を八の字にし、怒っているのか悲しんでいるのか判らない顔をして、右手で大病院のドアーを押して、入っていきました』
『待合室に入ると、沢山の外来患者が、ソファに座って順番を待っています。数列に並んだソファには空いた席がないほど混んでいます。男性は、左手をポケットに突っ込んだまま、顔を歪め、その混雑を見渡しています』
『男性は、受け付けの窓口に行きました。その窓口に、ぽっちゃりとした顔の看護婦さんがいました。男性は、今まで突っ込んでいた左のポケットから、左手を抜き出しました。すると左手の人差し指の先にスッポンが噛みつき、ぶら下がっていました。その噛みついているスッポンを右手で指しながら、窓口の看護婦さんに、何か懸命に言っています』
『男性は、286と書いた札を持ち、スッポンに喰いつかれた左手は、スーツの左ポケットに突っ込んだままです。受付室から出てきた看護婦さんが「286ばんです呼ばれたら入って」と言うのを、痛みに耐えながら、泣きべそをかいているような顔をして聞いています』
スッポンは、噛みついたら最後、カミナリが鳴らんと離さんぞと、子供の頃、脅されていたことを思い出しました。
この噛みいついたら、放さないというスッポンの恐ろしさは、サザエさんのお父さんも良く判っていたようです。
サザエさんのお父さんは、まだ若のに、早くも耄碌し、かなり物覚えが悪くなったと自覚していました。
ある日、お父さんは、何か家族に言っておきたいことがありました。
しかし、何だったのかを思い出せずにいました。
気がかりのことを、思い出せずにいると、廊下の方からサザエさんの甲高い悲鳴が聞こえてきました。
そこで、お父さんは、忘れていたことをハタと思いだしました。
そうだ、雑巾バケツに、貰ったスッポンを入れていたんだ。
サザエさんは、掃除しようとバケツに手を突っ込んで、中に入れてあったスッポンに噛みつかれ悲鳴を上げていたのです。
ある男性が、大病院に、左手をスーツのポケットに突っ込んだままでやって来ました。
この男性は、スッポンが噛みついたら離さない習性を、身をもって体験している最中だったのです。
痛い、噛みついているスッポンを離してもらおうと、大病院に行きました。
大病院に行ったので、患者が待合室に溢れるほどです。
彼が、受付でもらった番号札は、286番ですから、相当長時間待たねばなりません。
自分の番が呼ばれるまでは、スッポンに噛まれている左指先の痛みには、耐えねばなりません。
この男性は、スッポンに噛まれて、スッポンをぶら下げたままポケットに入れ、病院、こともあろうに大病院に駆けつけています。
こんなことをされたスッポンは、意地でも噛みついた指を離しません。
スッポンは、こう思っているでしょう。
「水の中で気持ちよく水遊びしていた俺を見て、面白がって掴もうとするから指に噛みついたのだ。この野郎は、俺を水の中に戻してくれないで、噛まれたまま水から出すから、俺は怒った。決して離さんぞ」
彼がそう言っていますから、この男性は、
「噛みつかれて痛い思いをしている指が、接着剤でスッポンに接着されて、離れない」
などとは思わず、スッポンが噛みついている手を水の中に浸ければいいのです。
すると、スッポンは、
「手に噛みついて、水中から引き出され、空気中に置かれ、環境が変わった。環境が変われば、死んでも離すもんか」
と思っていたのが、本来の生存環境である中に戻されると、
「こんなことをしなくても良いんだ」
と気づき、噛みつきを止めるのです。
スッポンに噛みつかれたら、慌てて、大病院に行く必要はありません。
そのまま水の中に入れましょう。
きっと、彼等は離して呉れるはずです。
それにしても、スッポンに噛みつかれた彼は、何故、大病院に行ったのでしょう。
大病院は、混雑しています、なんでも出来ると言うものではないでしょう。
スッポンに噛まれたところをどうするのでしょう。
スッポンの首にメスを入れ、切り離すのでしょうか?
大病院では、規則に沿って処理するので、時間が掛かります。
しかし、噛みつかれたまま、痛さも辛抱して、順番を通り待っていれば、その内、スッポンも、噛みつくのを止めるかもしれません。
または、料理屋さんに行けば、もっと簡単に処置できたかもしれません。