『塩梅』という言葉がある。
まちがっても「しおうめ」じゃない。「あんばい」だ。そう、「良い塩梅だね 」と使う。
良かれ悪しかれ極めて日本的な言葉だ。
つまり、同じ文化的基盤(アイデンティティみたいなもの)を持った者同士だけで通じる、「さじ加減」の事だから。
「以心伝心」という言葉に通じるものがある。
ただ、「以心伝心」では、心と心との関係性だけが中心命題となっていたが、「塩梅」の場合はそこに「モノ」が必須の媒体として存在し、その「モノ」の作り方や取り扱いについて、心と心が同調している状態を指している。
逆に言うと、「モノ」が介在していなかったり「モノ」の状態が適切になっていなければ、心は通じあえないか、反発し合う可能性を持ち、ある種の緊張感をも包含する言葉でもある。
しかし、言葉を漫然と使っている限り、「塩梅」という言葉の表面上の印象からその種の緊張感を読み解くことは難しいだろう。
言葉は、読み手使い手によって、表す姿も多様であるということだ。
まちがっても「しおうめ」じゃない。「あんばい」だ。そう、「良い塩梅だね 」と使う。
良かれ悪しかれ極めて日本的な言葉だ。
つまり、同じ文化的基盤(アイデンティティみたいなもの)を持った者同士だけで通じる、「さじ加減」の事だから。
「以心伝心」という言葉に通じるものがある。
ただ、「以心伝心」では、心と心との関係性だけが中心命題となっていたが、「塩梅」の場合はそこに「モノ」が必須の媒体として存在し、その「モノ」の作り方や取り扱いについて、心と心が同調している状態を指している。
逆に言うと、「モノ」が介在していなかったり「モノ」の状態が適切になっていなければ、心は通じあえないか、反発し合う可能性を持ち、ある種の緊張感をも包含する言葉でもある。
しかし、言葉を漫然と使っている限り、「塩梅」という言葉の表面上の印象からその種の緊張感を読み解くことは難しいだろう。
言葉は、読み手使い手によって、表す姿も多様であるということだ。