ジャズの音楽史をことごとく塗り替えた人物、それがマイルス・デイヴィスです。

アメリカのイリノイ州アルトン生まれで、翌年にイーストセントルイスへ転居し、父は歯科医であったため、マイルス自身は他のジャズプレイヤーよりとても裕福な環境で育ちました。母は音楽の教師をしており、その影響で10代の頃からトランペットに興味を持ち演奏練習をしていました。高校時代に地元ではジャズバンドを結成、セントルイスでは大人とのバンドで活躍していました。当時のセントルイスにはアフリカ系アメリカ人の労働者の居住区が多く、ジャズライブが定期的に行われていました。そのためマイルスは多数のジャズプレイヤーを見て学んでいました。

18歳のある日にマイルスは、セントルイスにチャーリー・パーカーが演奏しに来たとき偶然にもチャーリーとの共演を果たしました。彼はその後直ぐにニューヨークに出てジュリアード音楽院に入学(後、中退)。後チャーリーのバンドに加わる事となりました。1947年には、チャーリーやマックス・ローチのサポートを得て、初のリーダー・セッションを行います。

チャーリーの元でのビバップからキャリアは始まったが、マイルスは新たな可能性を求め、1948年に編曲家のギル・エヴァンスと出会います。ギルの協力を得て、ウェスト・コースト・ジャズの影響を受けた『クールの誕生』を制作し、その後もギルとは度々共同制作を行います。

1950年代に入ると、アート・ブレイキーなどと共演するが、麻薬の問題で演奏活動から遠ざかります。しかしマイルスは立ち直り、1954年プレスティッジ・レコードから発表した『ウォーキン』以降、ハード・バップの旗手として活躍し、1954年12月24日には
セロニアス・モンクと共演するが、両者は音楽に対する考え方が相容れなかったとされ、この共演は俗に「喧嘩セッション」と呼ばれていました。しかし実際の所、このセッションは演出上マイルスが吹くときにはモンクに演奏しないよう、マイルスが指示したというだけであり、実際には不仲ではなく、評論家が不仲であるかのように曲解してそう名付けただけのものです(他ならぬモンク自身もマイルスの指示を了解していた事が判明している)。

1955年、ジョン・コルトレーン、レッド・ガーランド、ポール・チェンバース、フィリー・ジョー・ジョーンズのメンバーで、第一期クインテットを結成し、同年、ニューポート・ジャズフェスティバルにおいて、チャーリー・パーカーの追悼のためのオールスター・バンドに参加し、このときの演奏がきっかけとなり

コロムビア・レコードと契約し、1956年に移籍第一作『
ラウンド・アバウト・ミッドナイト』発表。その一方で、プレスティッジとの間に残された契約を済ませるために、アルバム4枚分のレコーディングをたった2日間で行った。24曲、すべてワンテイクであったといわれています。俗に「マラソン・セッション」と呼ばれるが、連続した2日間ではなく、2回のセッションの間には約5ヶ月のブランクがあります。これらの演奏は『ワーキン』『スティーミン』『リラクシン』『
クッキン』の4枚のアルバムに収録され、プレスティッジはこの4枚を毎年1枚ずつ4年かけて発売しました。

また、1957年にはパリへ渡り、現地のジャズメンと共に、映画『死刑台のエレベーター』の音楽をラッシュに合わせて即興演奏
で制作し、1958年にはキャノンボール・アダレイを加えて、バンドはセクステット(6人編成)になります。同年にはキャノンボールの『サムシン・エルス』に参加し、また、レッド・ガーランドが退団したため、ピアノにビル・エヴァンスを迎え、ビルはバンドにクラシック音楽(特にラヴェル、ラフマニノフ)の知識を持ち込みマイルスに影響を与えたが、黒人のピアニストを雇わなかったことでマイルスのバンドの黒人ファン等からの
人種差別問題など(当時唯一の白人メンバーだった)で7ヶ月余りで脱退し、その後ビルを特別に呼び戻し、代表作の一つ『
カインド・オブ・ブルー』を制作し、モード・ジャズの方法論を示しました。

1960年にジョン・コルトレーンがグループを脱退、他のメンバーも随時交替します。ここからしばらくメンバーは固定されず(この時期ソニー・ロリンズや、J・J・ジョンソンらと再び共演している)、作品的にも目立ったものは少なく、ライブレコーディングが中心となっていきます。1963年

ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムスがグループに参加し、1964年7月に初来日、同年秋にはウェイン・ショーターを迎え、マイルス、ウェイン、ハービー、ロン、トニーという第二期クインテットが確立し、1968年前半までこのメンバーで活動しました。途中マイルスが健康状態の悪化で活動の休止を余儀なくされる時期もあり、録音された作品はそこまで多くは無かったが『ソーサラー』『
ネフェルティティ』など優れたアルバムを発表し、演奏面でも作曲面でも4ビートスタイルのジャズとしては最高水準まで昇りつめた5人は、「黄金クインテット」と呼ばれています。マイルス自身もこのクインテットを「偉大なバンド」と評しており、4人から学んだことも多かったと語っています。

1968年、8ビートのリズムとエレクトリック楽器を導入した、『マイルス・イン・ザ・スカイ』を発表し、その後ジョー・ザヴィヌルの協力を得て、その試みは1969年『イン・ア・サイレント・ウェイ』『ビッチェズ・ブリュー』といった作品で結実します。これらの作品が70年代以降のフュージョンブームの方向性を示すことになったとよく言われています(しかし、実際にその音楽を聴くと分かることだが、マイルスが志向していくのはフュージョンではなく、ロックのリズムあるいはアフリカ音楽にあるポリリズムをベースにしたファンクジャズであり、70年以降、マイルスはファンクジャズを極めていくことになるのです。

フュージョンブームでかつてのメンバーのハービー・ハンコックやチック・コリアなどがヒット作を連発する一方で、マイルス自身はファンク色の強い、よりリズムを強調したスタイルへと進展、フュージョンとは一線を画するハードな音楽を展開します。マイルスのエレクトリック期とはこの時期を指します。マイルスは次々にスタイルを変えながらスタジオ録音とライヴを積極的に行ったが、公式に発表された音源は必ずしも多くはなく、後に未発表音源を収録した編集盤が多く発売さます。1972年に発表された公式アルバムである『
オン・ザ・コーナー』は、現在でもその先進性が話題となる問題作です。しかし、こういったマイルスの音楽はセールス的には成功とはいえず、さらに健康状態も悪化、大阪でのライブ録音『アガルタ』『
パンゲア』を最後に、1975年以降は長い休息期間となります。

1980年にマーカス・ミラーなどのサポートを得て活動再開、翌年に復帰作『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』発表し、1980年代はポップ色を強め、

マイケル・ジャクソンやシンディ・ローパーなどの作品を取り上げたり、バンドを従えずあらかじめ出来上がったトラックの上にトランペットをかぶせるポップスミュージシャンのような制作スタイルを取り入れました。また
プリンスなどにも接近しいくつかのセッションや録音をした他、ペイズリーパークでのプリンスのライブにゲストとして一部参加しています。1990年には
東京ドームにて行われたジョン・レノン追悼コンサートに出演し、ビートルズのストロベリー・フィールズ・フォーエバー

をカバーしました。さらに遺作『ドゥー・バップ』(1991年)ではヒップホップのミュージシャンです。

イージー・モー・ビーをゲストに迎え、最後まで時代を見据えて活動しました。

マイルスのトランペットのプレイのおおまかな特長としては、ミュートを(1940年代後半~1950年前半に使用しているミュートは「カップ・ミュート」が主流で、「ハーマン・ミュート」を頻繁に使用するのは1950年代中頃から)使い、ビブラート
をあまりかけず、速いパッセージや跳躍の激しい演奏などといったテクニックにはあまり頼らないことがあげられます。また
、ディジー・ガレスピーのようなハイトーンを避け、中音域がトランペットにおいて最も美しい音がでるとして多用し、音から音へ移動する場合、半音階(クロマティックな)を用いています。 後には、無駄な音を一切出さないといった方向性にも繋がっていき、メンバーにもそういった方向性を暗黙裡に求めました。楽曲上の主な特徴は、初期においては、テーマの後、それぞれが順にソロ演奏を行い、その間バックアップとして呼応したり煽る事はあっても、アドリブ演奏を同時に二つ以上ぶつけることはせず、その後、再びテーマに戻って終わるといったジャズでの典型的なものです。1960年代以降は、テーマに戻らずに終了した作品も見られます。また、1980年代のステージでは、トランペットの他に

シンセサイザーも演奏することがありました。

スタジオ盤においては、収録時間の関係上、編集でカットされたり、つなぎ合わすことが多かったが、音を差し替えることはしませんでした。ステージに於いては、他のミュージシャンにもいえるが、スタジオ収録の新作曲や最先端の音の披露よりも、その時の楽器編成で有名な曲を演奏する事が多かったのです。

クラシックなどのアレンジも研究し、クール・ジャズや後の完全にアレンジされたジャズにおいて、その成果が発揮された。特に彼が導入したスタイルに
モード (旋法)があります。これらはチャーリー・パーカーらが得意としたビバップに限界を感じ音階にドレミが導入される以前の古い教会旋法を積極的にとりいれたアルバム『カインド・オブ・ブルー』でモードジャズの発端を開きました。

他にもブルース、ロック、ヒップホップなども取り入れ、ジャズの範囲ばかりではなく、様々なジャンルの音楽に注目していました。

ジミ・ヘンドリックスやプリンスを高く評価していた話は有名だが、ジミとの共演は非公式なセッションだけで終わり、プリンス作曲の「ジェイルバイト」の音源は、今も未発表のままとなっています。ただし、ブートというかたちでプリンスと共演したもう1つの作品「キャン・アイ・プレイ・ウィズ・ユウ」は出回っています。この曲はもともとアルバム「TuTu」に入る予定であったが曲調が他の収録曲と合わないため無しになった。また、『ユア・アンダー・アレスト』ではスティングがナレーションでゲスト参加し、マイケル・ジャクソンやシンディ・ローパーのカバーも収録し、音楽的には柔軟で先進的な姿勢のマイルスも、フリー・ジャズの分野には手を染めず、オーネット・コールマンを批判したこともある。ステージパフォーマンスにおいては観客に背を向ける事が多く一部批判されたが、ケニー・ギャレットは「彼は指揮者なんだ」と擁護する発言を行っています。