文明7年(1475年)、陶弘護の子として生まれ、陶氏は大内氏の一族であり、代々大内家の重臣として周防守護代など要職を務めました。

父が不慮の事件で死去すると(大内山口事件)、長兄の陶武護が陶氏を継承するも突然出奔し、次兄の陶興明が家督を継いだが、のちに兄弟で争い、興明は武護により殺害されます。武護も後に内藤弘矩を讒言したために大内義興によって誅殺されたため、残った興房が陶氏の家督を継ぎ、叔父の右田弘詮が後見しました。

興房は大内義興の時代から周防守護代として大内氏に仕え、各地を転戦しており、義興に従って上洛して船岡山の戦いに参戦したり、尼子氏との戦いで大きな軍功を挙げています。義興の死後はその子・義隆に仕えて九州に出陣し、少弐氏や大友氏との戦いでいくつもの軍功を挙げています。天文4年(1535年)には偽の和睦を結ぶなど調略も駆使して少弐資元を自刃させ、少弐氏を一時滅亡へと追いやるほどの実力の持ち主です。

永正4年(1507)、義興は前将軍・足利義稙を奉じて挙兵します。興房もこれに従い、翌年には上洛して細川氏、三好氏などの軍勢と戦い、将軍・足利義澄を追い落として義稙を復位させることに成功します。さらに永正8年(1511)の船岡山合戦では、先陣となって奮戦しています。

その後、義興の留守中の安芸で出雲の尼子経久が策動をはじめます。
このため興房は義興とともに周防に帰国、大永4年(1524)、大内義興が嫡男・義隆とともに尼子氏の助力を得た安芸武田氏を撃つために出陣します。このとき興房は義隆の後見となり、銀山城を攻撃しましたが、尼子氏に属した毛利元就が来援し、元就の夜襲を受けて散々な敗北を喫してしまいます。
興房はこの元就の指揮に驚嘆し、毛利氏の抱き込みを主君・義興に提案します。その結果、元就は興房のすすめに応じて尼子氏を去り、大内方に転じました。

享禄元年(1528)、大内義興は尼子氏との対陣中に急病を発し、山口に帰国後、死去します。義興は臨終の床で、興房に嫡男・義隆を託しました。

こうして義隆が家督を継承すると、興房は若い義隆を支え、その助力に全幅の信頼を置いた義隆は、北九州への経略に積極的に乗り出します。

享禄3年(1530)、義隆は筑前守護代・杉興運に少弐氏を攻めさせますが、龍造寺氏らの来援により敗北、勢いを得た少弐氏は田手畷の戦いに勝利をおさめ、太宰府に乱入します。

このため、天文元年(1532)、義隆は興房に命じて九州に出陣させます。興房は豊前で大友軍と戦い、さらに杉興運、豊前守護代・仁保隆重らとともに筑前に攻め入り、大友方の諸城を攻略しました。

しかし天文三年(1534)、興房率いる大内軍は、大友軍と勢場ヶ原で激突、吉弘氏直、寒田親将などを討ちとりますが、大友に援軍が現れたために結局敗北、周防に逃れることになります。

その後、興房はふたたび九州に出陣して少弐氏、大友氏の侵攻を食い止め、さらに活発化する尼子氏の侵攻を食い止めるために中国地方を転戦します。この興房の活躍で、大内氏は全盛期を迎えることになったのです。

このように興房は多大な武功をもって大内氏に尽くしましたが、文事もよくし、和歌や連歌にも精通していました。公家の飛鳥井雅俊や連歌師の宗碩らとも交流があったといわれています。

船岡山の戦いの際、出雲の尼子経久が「先陣になれば敵の兵、全て葬ってさし上げよう。」と言ったところ興房は「大内軍は夜襲は苦手でな。」と言って経久を退けたといいます。
勢場ヶ原の戦いでは、敵の大友軍に対して虚報を流して大友軍を誘導して大勝するという優れた軍略も見せた名将です。

死ぬ直前、息子の隆房の短慮な性格が将来に災いするのではないかと案じていたと言われています。
大内家臣団の中では、戦功随一であったとされるほどの武将です。