美紀は、高知に行く前に、先に偶然高知に行っていた北条と連絡をとっていた。

この高知では、恐るべき連続殺人とその背後に巨悪がいるとふんだからである。

北条は、苦笑いした声で「こんな時に、高知に研修とは、いいか?

君は、事件に関わるなよ。

研修だけじゃなくて高知の歴史を、楽しむといいよ。」

そういうと、電話を切った。

北条ほどの、敏腕捜査官が動く事件である。

素人が、首を突っ込めるはずがなかった。

ところで高知の歴史は、美紀にとっては、いや、歴史好きであれば誰しも興味を持ちたくなるのが高知の歴史である。

それは、誰もが知る英雄坂本龍馬、そして、龍馬を立たせる原因を作った山内一豊、次に秦の始皇帝の子孫である長宗我部氏、どれをとっても興味深い話しである。

美紀は、世界史だけではなく日本史も本当に好きだった。

美紀は、特に坂本龍馬に憧れていた。

それは、龍馬は下士として散々差別を受けて育ったのにも関わらず、龍馬が求めたのは権力ではなく、誰もが笑って暮らせる日本、すなわち身分の差別がなく、能力のあるものが国のトップになり、日本全体で協力しあいながら政治を行う、そうすることで国を良くしていこうというわけである。

そのために国民が選挙で選び、選ばれた人間が権力のためではなく、どこまでも国と世界のために協力して政治を行い、民主主義を確立させることである。

しかし、龍馬が本当にやりたかったのは、実家が商売の仕事をやっていたこともあり、世界を相手に商売をしたかったのだ。

だが、国のために動くことを決意してから、維新のリーダーとも言うべき盟友小松帯刀・そして長州の高杉晋作・土佐四天王の一人であり、盟友である中岡慎太郎とともに国のために戦った。

全ては、日本に生きる全ての人の未来のために。

特に、龍馬が最も一目おいた帯刀との友情の話しが好きだった。

帯刀は、西郷・大久保を従え、二人が動きやすいように動きまさに小松の薩摩と他藩に言われ、龍馬からは船中八策の筆頭にあげられるほどの人物、それが帯刀である。

そして、三菱財閥を作った岩崎弥太郎である。

本当に考えただけで、興味深かった。

美紀は龍馬のことを考える時、今の時代に一人でも龍馬や帯刀のように本当の意味でこの国の事を考えて政治ができる人間(体面しか考えようとしない政治家ではなく)が政治家になれば国は変わるのにと、そう考えずにはいられなかった。

だが実際は、権力を求めて綱引きしたり、選挙のことしか考えないで口先だけ意見をし、不正があれば隠そうとし、不正が見つかりそうになると警察や検察を徹底的にたたくことで自分の評価を上げようとする。

そして、決定的な証拠がなければ捕まえることができないため、より強行な姿勢を見せようとする。

もちろん必ずしも、検察や警察が正義であるとは限らないのだが。

権力に、魅入られた人間は警察だろうが検察だろうが関係なくなってしまうからである。

そんなことを、考えながら美紀は恵里と共に高知の地についた。

美紀と恵里は、荷物を置いた後、観光に出かけたのだ。

まずは、二十三士の墓から行った。

二十三士とは、土佐勤王党のリーダーである武市は、尊皇攘夷を成すために立ち上がった。

だが、その時の家老である吉田東洋は、諸外国と戦ったところで勝てないのは最初からわかっていたため、武市の考えを許さなかった。

それが、上士と下士の対立を生む結果になり武市は東洋を暗殺した。

武市は、一度は将軍すら動かすほどの力を持つが、八月十八日の政変以後、前藩主山内容堂により勤王党の大弾圧が行われ、武市瑞山はじめ土佐勤王党の主要メンバーは軒並み投獄された。一連の弾圧に対し憤懣を募らせた清岡道之助は、二十二人が、野根山の番所に武装して集まり同志の解放を訴える行動を起こした。しかし、
藩は兵を率いて鎮圧に向かい対峙した。清岡らは、戦わずに阿波に落ち延びたが囚われて土佐に送られ、田野の郡奉行所にて獄につながれる。藩は取り調べもせず、武装して集まることは藩主に対する反逆として、近くの奈半利川の河原にて
23人の斬首が行われた。

二十三士の中には上は 41 歳の清岡治之助、下は 16歳の木下慎之介と幅広い年代が加わっていた。
その後、遺族の俸給は召し上げられたが明治 10 年に族禄が復活、明治 24年には贈位された。現在の墓は道之助の妻静が私財によって建立したものである。

二十三士の墓奈半利川

美紀は、これを考える度に思う。

それは、幕末の思想の違いはあれ国の未来のために動いた人達がいた。

そして、その人達は長宗我部の家来の子孫であること。

そのために、山内家にとって大恩ある徳川に逆らった反逆者である長宗我部を容堂は嫌っていた。

そのために、上士と下士とに分けた上で差別をしたのだ。

山内家にとって、徳川の恩とは、三河国吉田城主の池田輝政などもこの時期、一豊とたびたび接触しており、なんらかの打ち合わせをしていると考えられる。関ヶ原の戦い本戦では毛利・長宗我部軍などの押さえを担当し、さしたる手柄はなかったものの戦前の功績を高く評価され土佐国一国・9万8000石(太閤検地時に長宗我部氏が提出した石高、のちに山内氏自身の検地で20万2,600石余の石高を申告)を与えられ、官位が従四位下土佐守に進んだのだ。

そのために、徳川への忠誠心が高かったのだ。

だからこそ、勝手に土佐を動かし、徳川に逆らう尊皇攘夷を行おうとしたことがより容堂を怒らせてしまったのだ。

そのための、悲劇だったのだ。

これを考えると、美紀は本当に辛くなった。

人それぞれに、考えというものがある以上、当然思想も違ってくる。

そして、昔は今のように状況を電話で連絡できるような世の中ではない。

そう、だから幕府が攘夷をしたところで勝てないのがわかっていても、他藩がそれを理解できている時代ではないのだ。

他藩の上の方が、わかっていても下の方が理解しているとは限らない。

伝達が、行き届いているかどうかで流す必要のない血を流してしまったとも言えるのだ。

そして、幕府にも正義は当然あった。

260年もの間、太平の世の中を守ってきた徳川にとっては、強い幕府でもって強い国を作るという考えのもとに政治を行っていたからだ。

つまり、何が正しくて何が間違っているのかわからない時代だったというわけである。