信長は、見識の広さや合理性と冷徹さを兼ね備えた知性により、尾張国守護代の一家老
に過ぎなかった織田家(弾正忠家)を、全国第一勢力にまで押し上げた人物です。強力な中央政権の基礎を築き、天下統一を目指しますが、志半ばで倒れました。

信長までが、中世の政治といわれています。

信長が、何故ここまでの活躍ができたのか

まず第一に、先を見通した上で作戦を立てることができるからです。

信長は、味方内にいる敵と織田家を敵対視してる敵を油断させるためにうつけの振りをしました。

それが、結果として内部を統一して、今川義元を倒して天下統一を目指すことになりました。

うつけの振りをしてたころ、家康に出会い仲を深めました。

それが、同盟につながりました。

第二に、民を大事にしたことです。

うつけの振りを、してたころから民をみて育ちました。

民を大事に、することが戦略の意味でも重要な意味を持つことを理解していたということです。

第三に、どんな身分の者であろうと家臣にし、功績を立てたらどんどん出世させる実力主義を取ったことです。

第四に、朝廷政策です。

最初は、重視していませんでしたが、第一次信長包囲網の時に朝廷の力を知りそれ以来、朝廷を重視するようになったんですよね。

それを、見てるからこそ秀吉・家康も朝廷を重視しました。

そして、信長の海外に対する関心についてですよね。

南蛮への関心
南蛮品を好み、正親町天皇を招き開催した「京都御馬揃え」にビロードのマント、西洋帽子を着用し参加した。晩年は戦場に赴くときも、南蛮鎧を身に付けていたと言われています。アレッサンドロ・ヴァリニャーノの使用人であった黒人に興味を示して譲り受け、彌介(やすけ)と名付け側近にしました。
イエズス会の献上した地球儀・時計・地図などをよく理解したと言われています(当時はこの世界が丸い物体であることを知る日本人はおらず、地球儀献上の際も家臣の誰もがその説明を理解できなかったが、信長は「理にかなっている」と言い、理解した)。好奇心が強く、鉄砲が一般的でない頃から火縄銃を用いていました。奇抜な性格で知られるが、ルイス・フロイスには日常生活は普通に見えたようです。ローマ教皇グレゴリウス13世に安土城の屏風絵を贈っていたが、実際に届いたのは信長の死後の1585年であったとされています。なお、この屏風絵は紛失しています。

これを、読んでいただければわかっていただけると思いますが、信長は世界をよく知っていたのです。

つまり、信長が生きていたら直接明に攻め込んだでしょうね。

西欧諸国が、アジアに攻めて来る前にアジアを支配したかったということですね。

アジアを固めるために。

信長は、彼らが乗って来る帆船も知っていましたので、こういう構造の船でなければ、速く遠くまで、多くのものを運べません。そのために、大航海の出来る竜骨構造の船も造らせたでしょう。秀吉のように安宅船での海外遠征は考えていなかったと思います。鉄の船まで考える信長です。

秀吉は、朝鮮出兵のために2000隻の船を用意したそうですから、信長もヨーロッパ式の帆船でそれだけの船を製造させたはずです。また、安宅船は構造上、大砲を乗せれませんでしたが、帆船には乗せれます。ヨーロッパまでは、行かなかったかも分かりませんが、現在の東南アジアは抑えたかも分かりません。おそらく世界の歴史も大きく変わった可能性もあるんですよね。