本多忠勝は、徳川四天王・十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されています。
生涯において参加した合戦は五十七回に及びますが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられています。

小牧・長久手の戦いでは、わずか500名の軍勢を率いて秀吉自ら率いる8万の大軍と対峙し、秀吉の家臣、加藤清正・福島正則らが忠勝を討ち取るべしと進言しました。しかし、忠勝の姉川での勇猛ぶりを聞き知っていた秀吉は目に涙を浮かべ「わざと寡兵で我が大軍に勇を示すのは、我が軍を暫時喰い止めて家康の軍を遠ざけるためであろう。徳川家を滅ぼした際にはかれを生け捕って我が家人にすべきなり」と忠勝を討ち取ることを禁じました。
秀吉・家康が和睦した後に秀吉に召しだされたとき、「秀吉の恩と家康の恩、どちらが貴殿にとっては重いか」と質問されると、「君のご恩は海より深いといえども、家康は譜代相伝の主君であって月日の論には及びがたし」と答えました。
織田信長にその並はずれた武勇を「花実兼備の勇士」と讃えられました。また、豊臣秀吉には「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と勇将として引き合いに出されました。

忠勝は勇猛なだけではなく知略も備えた名将で、関ヶ原の戦いでは井伊直政と共に誓紙を何枚も発行して西軍武将の切り崩しにも務めています。
関ヶ原において西軍が敗戦した際、それに与した真田昌幸・真田信繁(幸村)親子の助命を娘婿の真田信之と共に嘆願したが、両名に散々煮え湯を飲まされている家康は強硬に拒否しました。またそれ以上に昌幸により上田城に釘付けにされた挙句に関ヶ原遅参という失態を演じ、家康の勘気を被った秀忠は強硬に死罪を主張しました。これに対して忠勝は「お聞き入れくだされなければ、それがしが殿と一戦仕る」と啖呵を切り、家康を唖然とさせました。結局は忠勝らの嘆願に折れる形で真田親子は紀伊高野山山麓の九度山に蟄居という処分に止まり、信濃上田領は信之に与えられることとなりました。
晩年、彼は小刀で持ち物に名前を彫っていました。その時、うっかり手を滑らせ、指に小さな切り傷を負ってしまう。忠勝は「わしの命運もここまでか」と嘆き、実際にその数日後に死去しました。これが彼の生涯の中で最初で最後の負傷だったと伝わっています。